ジャンクな脳と記憶

本を通じて人生の幸福を考えています。

人は自分と同じ考えという幻想

f:id:gummy2:20160202003339p:plain

 

突然怒り出す人にであった事はないだろうか?

その人が特別行動障害というわけではなく、ただの見解の相違と言う事がある。

話を伺うと、「こうして欲しかった」的な回答が多くてビックリする。

「こうしてほしかった」と言うのは裏返せば「こうしてくれるだろう」という希望的観測なのだ。

つまり「自分の気持ちを推し量らって、こうしてくれるのが当然」と感じているのだが、たいていの場合「相手にそれが伝わっていることはない」

つまり、勝手に相手に自分の考えを理解している事を望み、それが期待どおりにならないと知ると、機嫌が悪くなるといった具合だ。

だから、相手にしたら突然先方が怒りだしたように見えるのだ。

 

こいつは非常にやっかいで、伝えもしないのに相手がわかったものだと思うのは、ある意味潤滑に人間関係を保つのには必要かも知れないが、そもそも自分以外の人の事をそんなに興味ある人はいないだろう。

どんな美少女や芸能人でも、見ている人が勝手にイメージを膨らませているだけで、本当の彼や彼女は本人しか知り得ないのだ。

いや、愛する人や家族なら私は理解している、と言う人が居るかもしれないが、四六時中他人の事を考えていられるほど、人生は時間が余っていないであろう。

 

特に顕著なのは、店の店員と客とかだろう。

客は自分の事が理解されていると思い込み求める。

係員はその少ない情報から、大体の目安を立てるが、必ずしも合っているとは限らない。

その相違から「こうしてもらいたかったのに」みたいなクレームが起こるが、そもそも全く知らない客の事をそこまで知る事など不可能なのだ。

しかも、ここには「相手が格下」という思い込みが働き、さらにグロテスクな展開になる事もありえる。

「対応が良くない」などのクレームなどを良く聞くが(本当にそういう事もあるが)それは情報を提示していない事の誤解から起きる事も多い。

「こんな格下は、オレの事をわかっていてあたりまえだ」

的な考えであったとしたら、それはとつてもなく勘違いな考えだ。

店員と客の関係は主従関係ではないし、その関係に優越はない。

今はどこでもそれなりのものが買える時代だ。気に入らなければ他で買えば良いだろう、それだけの事なのだ。

だが、見解の相違が原因なら、どこにいっても同じ結果になる可能性があるので、もしそう感じるなら、誰であっても自分の真の理解者は自分のみ、だと肝に銘じるべきであろう。

 

 

真実の方が怖い。殺人犯はそこにいる。

いわゆる推理モノは結構好きで、海外ものから邦題までけっこう読んでいるが、中にはホラータッチなもの(島田荘司など)は不気味さが面白いと感じるのだが、現実社会の起きた事件の不可解さは、比べ物がならないほど暗渠とした気分にさせてくれる。

 

今回は清水潔著の「殺人犯はそこにいる」副題として「隠蔽された北関東幼女誘拐殺人事件」となっている。

これは日本テレビの報道局の清水潔氏が取材した記録なのだが、この内容が凄まじい。清水氏の執念とも言える取材力も圧巻だが、日本の司法に深く切り込んだそのストーリーはひょっとしてすごい事なんじゃない(すごい事なのだ)と感心するばかりだ。

 

この本は1984年から96年に起きた連続幼女誘拐事件の詳細が描かれているのだが、なんといってもその一つの事件で犯人とされていた男性を、刑が確定したのにも関わらず清水氏が集めた証拠で再審まで持って行き、見事冤罪事件として無実を証明したところがまず凄い。

日本で刑が確定して、再審要求したところでほとんどが棄却されるだろうし、検察がそれこそメンツにかけて潰してくるにきまっているからだ。

そこを清水氏は勝ち取り、本当の犯人に辿り着くのだが、その過程がひどく生生しい。

これが小説なら、被害者の遺族から話の件は割愛されてもおかしくないが、実際は遺族から話を聞くのは至難の業という事が分かる。

そして不幸にも事件に巻き込まれた遺族は、その事を忘れようとしている心と解決して欲しい心が天秤になっている事に気付かされる。

引き込まれる内容だが、心が重くなる瞬間でもある。

また、警察の隠蔽は恐ろしいの一言である。

昔ホリエモンが「検察は逮捕したい人間を選んで逮捕している」的な事を言っていたが、この本を読むと都合の良い証拠だけが選ばれており、その政治的な圧力で一度犯人に仕立てられたら、逃れるのは至難の業と言える事がわかる。

それは交通違反で捕まった時のおまわりさんの態度を見ても分かる。どう見ても選んで捕まえているようにしか見えない!。

 

話が逸脱したが、この清水氏の本は「桶川ストーカー事件」のルポもあり、そちらもかなり怖い。そして、清水氏の本を読むとまだこの国にも真面目にジャーナリストしている人がいると分かって少し安堵する気持ちになれる。

 

 

文句と意見は違う。

f:id:gummy2:20160130234830p:plain

 

 

あなたは会社とかで、自分の意見と相違があるものについてどういう行動をとるのであろうか?

サラリーマンであるのなら、そんな事は日常茶飯事であり、一々憂いでいたら仕事にならないと思うだろうし、上司に意見できる雰囲気でない職場もあるであろう。

だが、言われた事をやるだけであったら、あなたという存在は一体なんのためにそこに存在しているのかわからなくなりはしないだろうか?

自分の意見など言っても、それは通るはずもない。もっともな意見だ、だがそれを言うことであなたが、どういう人なのか、どういう考えなのか知らしめる事ができる。

実は一見意味が無いように思えるこの行動には、重要な意味があるのだ。

何故なら、本気で考えているなら必ず自分の意見があるであろうし、それを実行したいと思っている筈だ。それを表明する事によって、あなたの本気度はとつてもない臨場感を生む。

この臨場感というやつは、人を惹きつける力があり、それを信じているものは、周りの者もまたその気にさせていく事が出来るのだ。

つまり、上辺だけの言葉は誰の心を動かす事が出来ないけど、本気の言葉はひょっとしてその心を打つ事があるからだ。

おべっかやゴマすりなどに代表される、協調は耳障りがいいように錯覚するが、それは自分自身の自尊心を低くし、建設的な事をなに一つ創りだす事はない。

 

だから、自分の頭で考えた事があるのなら、それを隠していてはいけない。自分の得意な事があるのなら、それを披露して社会に還元しなければならない。それが働くという意味だからだ。

 

あなたが、なにか思い当たる事があるのなら、それを意見してみよう。無論中傷や愚痴ではなく、あなたの言葉であなたの考えを、あなたと言う人を表現してみよう。

 

するとその結果の善し悪しではなく、何か前進している事に気づくだろう。

 

 

本気になればホンネになる、本音で生きる堀江貴文。

 

 

本日はホリエモンこと「堀江貴文」の本音で生きる、を考えてみる。

実はライブドア事件の時、私はライブドア株を所有していた。当時はITバブルと呼ばれる株ブームで私もIT関連の株をいくつも所有していた。

その後の顛末はみなさんも知ることであろう。私はかなりの額の投資金を失ったが、まあそれをゲームのようなものと考えると、そんなものなんであろう。

そんなわけで、当時の社長であった「ホリエモン」の書籍は何冊かもっていたが、内容はまったく覚えていない。よくある若い経営者の仕事についての記述であったとおもうが、今となっては古臭いだけであろう。(時代の最先端というのは、それだけ陳腐になるのも早いものだ)

 

さて、今回のホリエモンの著書は(少なくとも私が読んだ)彼の著作の中で一番心に残ったし、彼という人間がどのような思想をもっているかがよく分かる良書だと思う。

世間一般と私の彼へのイメージは「金」とか「えらそう」とかのイメージで取り立て、特殊な人物というわけでも無く、まあよく居る「バトルタイプの経営者」という具合だ。

 

確かに、彼の言動をたまにネットとかで見ると、その過激な言動に眉を潜める人も多いだろうが、そもそも彼は言いたいことを言っているだけ、という事がポイントで、その事を否定するプライドの高い人達とそもそも論点が違うので、話が合うわけ無い。

この図式は時たま見られる現象である。彼自身も本書で書かれているが、

 

瀬戸内寂聴さんとの対談で、

 

瀬戸内さんと僕は働き方や死生観が共通している点も多いし、90歳を超えて京都から東京に日帰り出張するバイタリティには素直に感服するが、原発に関する議論は全くかみ合わなかった。*1

 

他には、精神科医の香山リカさんと記述家の勝間和代さんの対談などがある。

 

両者の考えはある側面では正解だが、違う側面では間違った意見になってしまう。あたりまえだが、世の中はあらゆる側面から物事は存在しており、世の中は公平であった事はいままで一度もないのだ。

だから、ホリエモンが「原発も一つの手段」といっても、瀬戸内さんは「人の命が何よりも大事」とそもそも論点が違って、それじゃ話が合うわけ無い。

 

香川さんと勝間さんも、「幸せになるのは努力が必要」「努力が実らなくて不幸になる」ではまるで話の内容が違って、そりあ話がすれ違うよ、と思う。

 

つまり色々すぐ言動が報道されてしまうホリエモンとは、側面の違う人達が違う意見を言っている、と私はかってに分析している。それは本書を読めば何故そうなのか、理解できるのは無いだろうか。

 

本書はホリエモンが何故本音でしゃべる事が出来ない人が多いのかを記述しているが、その幾つかの例えで耳が痛い人もいるであろう。

 

目次を読むだけで、大体は内容が察しできると思う。

 

●目次
1章 なぜ、本音で生きられないのか
2章 言い訳をするな
3章 バランスはとるな
4章 本音を生きられない理由は「自意識」と「プライド」である
5章 すべて最適化せよ 「本音」を実現するための時間の使い方
6章 やりたいことができる人の特徴

 

本音で生きる事は自由になる事と同義言葉である。

つまるところそういう事なのであろう。

 

 一日だけ幸せで居たいならば床屋にいけ。

一週間だけ幸せでいたいなら車を買え。

一ヶ月だけ幸せでいたいなら結婚をしろ。

一年だけ幸せでいたいなら家を買え。

一生幸せでいたいなら正直でいる事だ。*2

 

 

*1:本書より、詳しくは対談は死ぬってどうゆうことですか 角川ファレスタ

*2:くれよんしんちゃんより

疲労は大敵!ベネクスのリチャージショートスリープ

ベネクスのネックウオーマーのエントリーで、すっかり気に入ってしまって、結局シャツを購入してしまった。

 

gummy2.hatenablog.com

 

この会社、いろいろ同じ素材をつかったグッツを開発しているのだが、ネックウオーマーを愛用し始めてから、他にも欲しいなあと感じていたのだ。

ネックウオーマーも大判のものがあるので、それにしようかと思ったが、ここは違うものでその効果を実感したいと思い、シャツを注文してみた。

このナノプラチナが織り込まれた繊維というのが、どうやら遠赤外線的なもので血流がよくなるらしいので、肩こりがよくなるのではないかと期待して購入しました。

 

f:id:gummy2:20160127225301p:plain

amazonでも定価でした。

1万2000円はなかなかの出費だが、外着ではなく本当にリラックスするために部屋着にお金をかけるというのは、現代風でいいのではないだろうか?

 

ネックウオーマーほどの効果はいまのところ感じないが、強力に効く商品ではないので、だんだん効力が出てくるのではないだろうか(そう思いたい)

ちなみに、素材はバリバリ化学繊維ですが着心地はかなりいいです!

f:id:gummy2:20160127225824p:plain

 

 

 

 

かっこいいのはこんなにもかっこ悪いんだ!ホビット思いがけない冒険。

その昔一世風靡した「指輪物語」いわずと知れたトールキンの傑作ファンタジーだ。古典と呼ばれた作品を、CGを駆使して作られたヒット映画だ。

当時RPGに出てくるモンスターやデミヒューマン達が見事に再現されていて、思わず「おお!」と叫びたくなる瞬間がファンタジー大好きであった当時に私の心にヒットした思い出があります。

そんな「ロード・オブ・ザ・リング」の続編(時間軸では前の話であるが)が今回取り上げる「ホビット・思いがけない冒険」である。

前作の知名度に比べて、今回のはひっそりとした公開であったが、個人的には「指輪物語」より面白いと思う。

今回も素晴らしいCGは健在で、モンスター達がまるで本物のように挙動する姿は一見の価値があると思う。

改めて思うことは、数年のうちにCGは進化して古い作品が陳腐に思えるから不思議だ、この作品も数年後には陳腐に見えてしまうのであろうか。

古典ファンタジー映画「アルゴ探検隊」をいま見てもCGでない骸骨兵士は中々よく出来ているのだけど、俳優の古臭さとポセイドンなどの巨人の扱いが無理がある。これは当時は精一杯の表現であったであろうが、このホビットでは巨人も問題なくリアルに動いている。(まあ当たり前だが)

 

このトールキンの作品を見ると、その芯には暴力で解決するのでは無いというヒーローの姿に感激する事となる。

主人公のビルボは、剣も武術もダメで鎧すら身につけていない。まったくもってヒーローらしくないのだが、これが実にかっこいいのだ。

そもそも絶対的な強さを持つヒーローの方が作品としては描きやすいし、爽快感もあるであろうが、力で解決できないヒーローのほうが凝った解決の仕方で切り抜けるので楽しいと思う。

そうやって最弱ビルボさんは、最初旅の仲間に疎まれながらも、その隠れた勇気で次第に打ち解けていくのであった。

ちなみに、今回はドワーフ一行と旅をするのだが、このドワーフの中にはイケメンが何人か居て、背が低いこととイケメンさはあまり関係ない事が驚きである。

 

けど、やっぱり魔法使いが反則的に強いのはどのファンタジーでも一緒なのね。

 

 

生き方は自由だ!ナリワイをつくる!

 

 

ほんの50年位の昔、人々はいろんな事を行い工夫しながらインカムを稼いでいた。その日暮しとまで言わないが、わりとミクロな世界で簡単な仕事をして報酬をもらっていた。

今日のお題は伊藤洋志著「ナリワイをつくる:人生を盗まれない生き方」を紹介する。

 

この本によると、「百姓」の言葉の起源は「百の仕事」をするという事から来ているらしい。つまり、現代の我々のように「会社員」一筋の一辺倒ではなく、幾つかの仕事を掛け持ちで持っていて、その季節や需要に合わせて仕事を変えていくという生き方が普通であった事を示しているという。

 

まず、自分の生活を見直す事によってコンパクト化して、余計なものにお金をかけないようにする事が第一歩であり、その余剰分をお金に換えるという事をしていけば良いと著者は説くのだ。

 

つまり、何千万の家を買う代わりとして、スモールハウスを自分と仲間で造ってしまって、何百万も浮かせたり、その経験を活かして他人の家を修繕したりする。すると換金が可能となりナリワイとなる、てな具合だ。

 

それが仕事と違うというのは、まず自分のために行い、それが満たされたら他人に譲るという方法で、ビジネスとは逆の発想である事を示している。

また、それを専門としない事で、専門の人より完成度が下がるが、そもそもそこまで必要としていない人が多いであろうし、依頼人参加型とかにすれば楽しみながら、コストも下げれて、なおかつ完成度もそれなりでOKという事になる。

現代は何かと極めないとお金にならないイメージだが、名のしれた名人にならなくても、日常で暮らしていくためのものであるなら、実は誰でも出来る事が多いのもまた現実である。

昔の人とかは、何かと自分で直してしまうという人多いのではないだろうか?

家の修繕や、ちょっとした物置を建てたり、駐車場の整地や家電の修理など、中には椅子や机、床の張替えなんかもしてしまう強者もいると思う。

今でこそ、自分で直すより家電などは買ったほうが早いし、安い場合もあるだろう。だが、アナログなものとか家の修繕などは元々個人がそれぞれ直して居たのが普通であったのであろう。

世界的に見ても、家を立てたり、野菜を育てて自給自足をして、生活のイニシャルコストを下げている人達は多く、そういう事を自分でやれば毎日の生活コストは下がるに違いない。そこで毎日かかるコストを下げる事が出来れば、稼ぐ金額がそれほどでも無くても大いに充実するのではないだろうか?

つまり住宅を立てて、そのコストが日々の生活のイニシャルコストを圧迫しているなら、そこを抑えてコストを下げ、少ない報酬でも十分な満足感を得るという事をこの本は示唆していると言える。

 

時間を切り売りしているのは、この本のサブタイトル通り「人生を盗まれている」事に他ならず、人任せな人生が嫌だと感じているなら、この本のように違う生き方を考えてみるのもいいのではないだろうか?