ジャンクな脳と記憶

本を通じて人生の幸福を考えています。

北海道は観光地。オホーツクに消ゆ。

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私事で恐縮だが去年北海道に旅行に行った。北海道の感想は「飯が旨い」の一言に限る。空港でも、店でも試食は多いし、海産物も納得の旨さである。

結局札幌近郊しか行かなかったが、始終お腹いっぱい状態でさらに酔っ払っている状態であった。

観光という観光は行かなかったが、ガイドブックに記載されている場所は広大な土地を車で移動しかなく、たかが2泊3日の旅行では札幌市内&近郊が限界であったのだ。

 

だが、そんな北海道の旨さに惹かれながらも、私の心の中は「オホーツクに消ゆ」でいっぱいであった。

「ニポポ人形は売っているだろうか」

「網走刑務所はどうだろうか?」

「北浜駅は死体があるのだろうか?」

「キャバレールブランはどこにあるのだろう?」

みたいな感慨が浮かんでは消えていった。

一緒に行った妻はまるで世代ではないので、こんな心はわかってくれる筈もなく、(以前横浜港の観覧車を見た時、暴走してポートピア連続殺人事件の話を熱烈にしたが、反応は冷ややかなものであった)

そのオホーツクに消ゆの舞台であった北海道を「また来るぜ」と思いながら、白い恋人を食べて飛行機で帰省したのだが、物語の舞台が本当に行けるところだと、それを巡る旅行とか結構たのしそうである。

JTBあたりが企画したらどうだろうか?「オホーツクに消ゆツアー」でドッキリで殺人が起きたりして、もりあがるとおもうけどなあ。

 

そんな訳で、ファミコンで1987年に発売された「オホーツクに消ゆ」はドラクエおじさん「堀井雄二」原作の名作アドベンチャーゲームである。

ノリはサスペンス劇場的な感じで、日本が舞台なので地味な印象だが、旅情サスペンスは元々人気だし、当時の作品としては出色の出来栄えであった。(ストーリー、インターフェイスともに)コマンドを総当りでクリアできてしまうが、理不尽さが無く、まさに名作という作品である。

 

ファミコンアドベンチャーはこの後、衰退していってやがてサウンドノベルとなり、そしてこのジャンル自体がもはや絶滅してしまったが、ファミコンのドット絵で描かれる北海道に当時の子供達は「いつか北海道にいくぞ」と心に誓うのであった。

 

穴を掘れ!埋めろ!ロードランナー

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今回は「ロードランナー」を書く。かなり古いソフトだが、元々はパソコンゲームであった本作は、1984年にファミコンに移植された。

パソコンゲームが元祖で、後にファミコンに移植されるというパターンは、結構あって、そこには結構ドラマがあったのようで、このロードランナーにもドラマがあったらしい。

 

原作者のガイジン「ダグラス・E・スミス」さんはこのロードランナーを作成した時は学生だったそうだし、このロードランナーがきっかけで、富を手に入れた人である。

最近なら「フェイスブック」のマーク・ザッカーバーグ氏みたいなものであろうか?(わたしはフェスブックはやっていないが、映画ソーシャルネットワークは映画館に視聴しにいった)

このような若者がゲームで金脈を当てるというのは、まさにドリームでこの作品「ロードランナー」には、そういった若者のアイデアみたいなものが詰まっている(ような気がする)

ゲーム自体は今は殆ど無い、アクションパズルでプレーヤーは穴をほって敵をかわして金を集めて脱出するとゲーム、と文字で起こすとまるで面白そうには思えないゲームだが、付属のエディット機能を使うとオリジナルステージが創れて、当時1年に一本くらいしかゲームが買えなかった少年達には重宝する機能であった。

 

この穴を掘って、敵を埋めるという、それだけのゲームにアメリカンドリームなるものが含まれていると思うと、なかなか感慨深いが、より高度なテクニックを要求される「チャンピオンシップ・ロードランナー」が後に発売されるが、こちらは急に難易度が上がって(通常のロードランナーが1だとすると、チャンピオンシップロードランナーは一気に10くらいの難易度だった)小学生を置いてきぼりにしてしまう仕様であったが、このゲームがいかに良く出来ていて、初級者から達人まであそべるゲームとしての本質があると言えるのではないだろうか?

 

 

 

実験しよう!そうしよう女神転生

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さて、最近バナー広告等で「女神転生ファイナル」なる言葉が踊っている昨今だが、懐古ゲーマーとしては、「まだやっていたのか」という感想が多いと思う。

で、今回はその「女神転生ファイナル」の最初のファミコン版「女神転生」を語ることにする。

「メガテン」の異名で愛された同シリーズは、独特の背徳感を匂わせたシリーズで、比較的硬派なイメージである。時代の流れで、なんとなくキャラゲーぽくなってしまったが、ファミコンやスーパーファミコン当時はまだまだ硬派なゲームであった。

 

ゲーム内容はオーソドックスな3DダンジョンRPGであり、当時同じように流行ったウイザードリィの様なインターフェイスなのだが、世界観が現代である事と、このゲームの肝である合体システムが秀逸であり、むしろその合体システムがこのゲームの全てと言ってしまっても過言ではないほど、よく出来ていたのだ。

 

ゲーム中あることをすると、その敵であるモンスターが仲間になる(これを仲魔と呼ぶ)その仲魔をこともあろうに、掛けあわせて新しいモンスターを造る事が出来たのだ。

 

その配合さによって、人と違うモンスターが造れるものだから、どんどん仲魔にして、どんどん新しいモンスターを造るのが楽しくなるという事なのだが、(勿論、そう簡単に強いモンスターは造れないのが、バランスとしておもしろかったのだ)

よく考えて見ると、何だか不気味な話である。

モンスターは外観が人間に似通ったものも多く、実際仲魔になる時、言葉をしゃべるものも多い。そのようなものをいとも簡単に掛けあわしてしまうというのが、人間史上主義のような考え方で、(考えすぎだろうが)不気味な雰囲気を醸しだしていると言えよう。

 

例えば、あなたが飼っている犬と金魚を配合しようとは思わないだろう。配合されたものは犬でも無ければ、金魚でもない、何かになってしまうだろうし、例えそれがとても役に立つ生物であっても殆どの人は、その行為に嫌悪感を覚えるだろう。

 

ところが、そいつが悪魔というものであれば、それを正当化してしまう。これは、旧ドイツのナチ党が掲げた「優生学」やドフトエフスキーの「罪と罰」で描かれた「天才は別格、それ以外は死んでも構わない」的な理論にすり替える事ができてしまうものでは無いだろうか?(無論考えすぎだろう)

 

あくまをころしてへいきなの?

 

と女神転生の悪魔は言う。

 

悪魔は生かしておいてはならない*1と書いたのは旧約聖書だが(実際は魔女である)昔から人は、自分以外の生物は殺して構わないと思っていたのだ。

 

こんごともよろしく。

 

だが、そう言う悪魔達に愛着が湧くのも、また事実である。

 

 

 

 

 

音楽もいいですよ!

 

 

*1:出エジブト記

最近の忍者は忍んでいない。忍者龍剣伝。

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忍者という言葉に魅せられた人は多い(特にガイジン)だが、どうして忍者の格好をしている人が(特にガイジン)あんなにもかっこ悪いのだろうか?

 

忍者とはいわゆる暗殺者であり、イスラム圏ならアサシンと呼ばれるものと同義語であり、決して表舞台にでる事は無い影の功労者という感じなのだが、どうやら最近はその忍者は表に出てくる傾向があるらしい。

 

今回のテーマはテクモから出ているファミコンソフト「忍者龍剣伝」を取り扱う。

このソフト、当時でも中々人気があったソフトらしいが、相変わらず難易度が高く、まだ年端のいかぬ少年たちを豹変させて、カセットを叩きつける激情に駆られる事を許した稀有なソフトとも言えよう。

 

まあ、ようするに難しいという事だ。

 

ストーリー*1

龍の一族の末裔であるリュウ・ハヤブサは、決闘に敗れ帰らぬ人となった父の遺書に従い父の知人に会うため渡米する。しかし、アメリカでリュウを待っていたのは謎の軍団の襲撃だった。襲撃を退けてリュウは一人の女性を救うが、その女性の麻酔銃によって捕らえられてしまう。牢で目覚めたリュウに女性は謎の像を渡し、逃げるように告げるのだった。

 

しかし、名前がリュウ・ハヤブサとはすごい、漢字で書くなら龍隼だろうか?短くてなんだか変だが、どちらが名前か苗字が分からないのがすごい。

 

そして一番すごいのが、ステージの初めと後に入るビジュアルシーンだと思う。

当時のファミコンで、ストーリーを劇画調の絵で再現しているのが、中々見どころがあって、多少お約束のストーリーでも思わず見入ってしまう。

 

だが、当時のちびっ子たちは、最後のキスシーンでどう対応していいかわからず、狼狽してしまう事必須で、ゲームを順番ずつ変わってクリアした後、ポカーンとなってしまったのには開発陣も意図的なのだろうか?と疑いたくなるレベルである。

で、結局邪神てなんだったのだろう?

是非、ジェームスロギンズで小説版を書いて欲しいものである。

 

 

 

 

 

 

 

*1:wikipediaより

男には戦わなければならぬ時がある。戦いの挽歌

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鋼の縦と、鋼鉄を叩き上げて作り上げた片手剣を持ち、悪の軍団相手にたった一人で立ち向かう男がいる。

それが「戦いの挽歌」である。

核戦争後の荒廃した世界を統率している剣王を、あらゆる剣技をマスターした主人公が立ち向かう様を描いたファミコンソフト「戦いの挽歌」は、当時の世相をよく表した秀作であるのである。

 

まず、このソフトが発売された1986年は、まだ冷戦が続いており、核戦争の話題が未だ現実的にあった時代であり、その世界観は少年ジャンプに連載されていた「北斗の拳」にかなり似ている。(というかソックリである)

暴力で支配された秩序の無い世界で、自由を取り戻すというのも似通った設定だし、敵のボスが剣王アキレスと拳王ラオウで字が違うが、どちらも読み方が一緒だ。

今なら、その似通った設定に何らかの異論が唱えられる可能性があるが、当時は「北斗の拳」の空前的ブームに則り、あくまで「オマージュ」的な存在が許されていたのであろう。

 

で、この渋いタイトルは暴力には暴力を振るう、なんだか救いようにない内容なのだが、出て来る敵の勢力が中世の鎧を着込んだ化物と形容するしかない、謎の人間達なのだが、所々で近代兵器を操る不可解さがいい味を出しているようだ。

 

つまり、剣と盾で戦う主人公に合わせて、銃などの兵器は使わず、あくまでナイフやら、手に仕込んだ鉤爪であったり、鉄球などの扱いにくい武器を使う辺り、以外に敵もジェントルメンなのかもしれないと感じるのである。

 

ひょっとして、敵の剣王も何か理念に則って、止むを得ず暴力で統治しているのではないだろうか、とか訝ってしまう。

そもそも、何かに統治されなければ、不安定な勢力があちこちで無秩序でもっと酷いことが起こる可能性はあるので、そういった意味では剣王の統治もあながち悪いことでは無いのかも知れない。むしろ剣王を悪と決めつけ、同じように暴力で解決しようとするアメリカ的な考えこそ問題があるのかも知れない。

剣王を倒した後の世界は語られる事は無いが、その後は主人公がこの世界を統治したが、結局剣王の代わりになっただけで、支配が続いていく・・・なんて結末だったりして、

 

で、このゲームまったく女性が出てこない硬派なゲームであり、出てくるのはイカレタヘビィメタル系のおっさんばかりというのが、ある意味「戦いの挽歌」なのだろうか。

 

悪い奴はいかにも悪い名前なのか?スーパースターフォース

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ちょいと昔の子供向けのTV番組だと、敵対する勢力が「悪の軍団」的な名前で、しかも軍団自ら「悪」を自称している場合が多く、なんでだろうと思っていた。(単純に子供達に分かりやすいネーミングにしているだけであると思われるが)

自分たちを「悪」とネーミングするのはある意味、大人的な対応のような気がしないでもない。

「俺たちはそんな事を気にしないぜ」

 と大人の対応である。

 

さて、今回は当時テクモから発売されていた「スターフォース」の続編、その名も「スーパースターフォース」を取り上げる。

実はこの作品、当時は珍しい縦スクロールシューティングとRPG的要素を併せ持った作品なのだが、いろいろと斬新な作品なのだが、中でも難易度が異常に高いという事が当時の小学生を奈落の底に落としてしまう代物であったようだ。

 

それにしても、敵の名前が「暗黒大陸ゴーデス」といういかにものネーミングなので、こいつは絶対に悪い事企んでいると、名前だけで職質されるレベルなのではないだろうか?

 

実はこの作品、タイムパラドックスのお約束ストーリーなんですが(バックトゥフィーチャー的と申しましょうか)

バッド・エンド含めて、ファミコンとは思えない鬱エンディングなんですが、果たして自力でクリアした人がいるのか疑問です。

 

 

人生はいつも乖離している。マイ・ライフ マイ・ラブ。

 

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人生はフェアじゃない、その事に慣れるんだ。と言ったのはマイクロソフト創業者「ビル・ゲイツ」だが、まさにその通り人生とはいつだって不公平であり、正しかった事など稀である事は今まで生きて来た皆さんなら、当然の理である事はご存知であるだろう。

 

 

そんな訳で人生の縮図を試したいのなら、今回紹介するファミコンソフト「マイライフマイラブ」をプレイしてみるべきである。

 

このソフト、当時は鬼才のゲームデザイナー飯島健夫がデザインしている。(この人は今何をしているのだろうか?ラストハルマゲドンのゲームデザイナー)

 

まあ、すごろくなのだが、一人用の孤独なボードゲームであり、生まれてから死ぬまでの人生をファミコン上で体験していく異色ソフトなのである。

 

産声を上げてから、学校に通い、結婚して、死んでいく。

人生と同じように30代までは結構イベントが多いのだが,中年以降は極端にイベントが少ないのは実際の人生と一緒で泣ける。(起きるのは家族の死別という悲しいイベントばかりだ)

 

人生とは代わり映えのしない毎日の事をさしているのなら、このマイライフマイラブはまさに的を得ているのであろう。つまりこのゲームはただ長いだけの退屈なゲームとも言えた。

 

だが、ゲーム中ペットで飼っていた亀が、自分より長生きであったというのは、あるいみリアルであったのであろうか。