ジャンクな脳と記憶

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実験しよう!そうしよう女神転生

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さて、最近バナー広告等で「女神転生ファイナル」なる言葉が踊っている昨今だが、懐古ゲーマーとしては、「まだやっていたのか」という感想が多いと思う。

で、今回はその「女神転生ファイナル」の最初のファミコン版「女神転生」を語ることにする。

「メガテン」の異名で愛された同シリーズは、独特の背徳感を匂わせたシリーズで、比較的硬派なイメージである。時代の流れで、なんとなくキャラゲーぽくなってしまったが、ファミコンやスーパーファミコン当時はまだまだ硬派なゲームであった。

 

ゲーム内容はオーソドックスな3DダンジョンRPGであり、当時同じように流行ったウイザードリィの様なインターフェイスなのだが、世界観が現代である事と、このゲームの肝である合体システムが秀逸であり、むしろその合体システムがこのゲームの全てと言ってしまっても過言ではないほど、よく出来ていたのだ。

 

ゲーム中あることをすると、その敵であるモンスターが仲間になる(これを仲魔と呼ぶ)その仲魔をこともあろうに、掛けあわせて新しいモンスターを造る事が出来たのだ。

 

その配合さによって、人と違うモンスターが造れるものだから、どんどん仲魔にして、どんどん新しいモンスターを造るのが楽しくなるという事なのだが、(勿論、そう簡単に強いモンスターは造れないのが、バランスとしておもしろかったのだ)

よく考えて見ると、何だか不気味な話である。

モンスターは外観が人間に似通ったものも多く、実際仲魔になる時、言葉をしゃべるものも多い。そのようなものをいとも簡単に掛けあわしてしまうというのが、人間史上主義のような考え方で、(考えすぎだろうが)不気味な雰囲気を醸しだしていると言えよう。

 

例えば、あなたが飼っている犬と金魚を配合しようとは思わないだろう。配合されたものは犬でも無ければ、金魚でもない、何かになってしまうだろうし、例えそれがとても役に立つ生物であっても殆どの人は、その行為に嫌悪感を覚えるだろう。

 

ところが、そいつが悪魔というものであれば、それを正当化してしまう。これは、旧ドイツのナチ党が掲げた「優生学」やドフトエフスキーの「罪と罰」で描かれた「天才は別格、それ以外は死んでも構わない」的な理論にすり替える事ができてしまうものでは無いだろうか?(無論考えすぎだろう)

 

あくまをころしてへいきなの?

 

と女神転生の悪魔は言う。

 

悪魔は生かしておいてはならない*1と書いたのは旧約聖書だが(実際は魔女である)昔から人は、自分以外の生物は殺して構わないと思っていたのだ。

 

こんごともよろしく。

 

だが、そう言う悪魔達に愛着が湧くのも、また事実である。

 

 

 

 

 

音楽もいいですよ!

 

 

*1:出エジブト記