レトロゲーム探検記 悪魔城ドラキュラ①
久しぶりにレトロゲームを取り上げます。忙しい社会人ともなると、ゲームで遊んでいられないのが現状ですが、新しいゲームは面白そうだけど、長すぎて億劫という事で、古き良き時代のゲームを少しづつプレイしていきたいと思います、でもって思い出深い一品として、「悪魔城ドラキュラ」を何回かにわけてお送りします。
というのも、下手くそすぎて中々クリアできないので、必然的に小分けになってしまったというのが正解なのですが・・・。
悪魔城ドラキュラとは
1986年に任天堂ファミリーコンピュータの周辺機器ディスクシステムのソフトとして発売されたアクションゲームであり、その完成度から「やっぱコナミすげー」と当時の子供たちを歓喜させたソフトであり、横スクロールの典型的なアクションゲームであったが、どことなく大人びた設定(中世ぽい世界観、東欧の物語をベースに作ったストーリー、陰があるグラフィック、ファミコントップクラスの音楽など)
当時はバブリーな時代であったし、ゲームがお茶の間に浸透しつつある世相であって、なおかつ、ファミコンの周辺機器という未知の装置に魅せられた中、ブルジョアしか持てないと言われたディスクシステムにて、こんな完成度が高いゲームがでた事に勝手に「ゲームの第二世代がやって来た・・・」的な発言をしていた事をおもいだします。
そんなガキの話題に上がる本作ですが、じつは当時は持っていなくて、友人のF氏のところで友達が数人溜まってプレイしていたのです。
F氏は当時仲間内では一番ゲームが旨かったので、彼のプレイを見ている事が多かったのですが、次々変わるステージに「すごい・・・」と感嘆を上げていました。
それというもの、当時私はゲームセンターに毎日通っていて(一日1ゲーム50円のゲームをプレイしていた)そこにおいてあったカプコンの魔界村に熱中しており、この悪魔城ドラキュラはその魔界村のようなアクションでゲーム性では全く引けを取らなかったのだ。
まったくもって迷惑な話だが、私は毎日F氏の家に通い悪魔城ドラキュラを見続けていて、(F氏のプレイを眺めていたのだ)ついにクリアするに至るまで通い続けたのであった。
回顧ゲーマーであると「コナミはこの頃が一番輝いていた・・」的な発言をしてしまい、「何言ってんだおっさん」的なまなざしを受けてしまうのだが、その当時のコナミは私は将来一番就職したい会社であり、自分もいつか「悪魔城ドラキュラ」のようなゲームを作りたいなあ・・・などと思っていましたが、その当時のゲーム少年なら、大体、ナムコかコナミ、あるいはカプコン派に分かれていたと思いますが、私はコナミが大好きでした。なにせ、コナミはファミコン版の完成度がぴか一だったと思いますし、ゲームの出る頻度も比較的多く、中でもディスクシステムを贔屓してリリースしているのも好感がもてました。
私のコナミ好きはやがて、ウイニングイレブンまで続き、そしてゲーム自体をあまりプレイしなくなってしまったのですが・・。とにかく!このころのコナミが大好きなんだよ!と声を大にして言いたい。
ストーリー
中世ヨーロッパの平和な小国トランシルバニア。この国には「魔王ドラキュラは100年に一度、キリストの力が弱まるころに邪悪な心の人間の祈りによって復活し、復活のたびに魔力は強くなる」という伝説がある。ドラキュラは過去に一度この世に復活したが、世を暗黒の雲で覆い闇の世界に君臨せんとするドラキュラの野望は、英雄クリストファー・ベルモンドとの死闘の果てに打ち砕かれ、トランシルバニアの片田舎で再び眠りについたのであった。
それから100年が過ぎようとしていたイースターの夜、町ではキリストの復活を記念した盛大なカーニバルが催されていた。一方、そのとき町外れでは荒廃した修道院跡で邪教徒がドラキュラ伯爵の亡骸に人の生き血を注ぐ黒ミサの儀式を行い、不死の生命を復活させようとしていた。突如邪悪な雷雲が町を覆い、一筋の稲妻が修道院を貫いた。ドラキュラが再びこの世に舞い戻ったのだ。この危機に、ベルモンド一族の血を受け継ぐ青年シモンは、父譲りの不思議な力を秘めたムチを手に、一人ドラキュラの城へと乗り込んだ。
ウィキを見ると、こんなストーリーであったのかと改めて思いました。
当時は余りストーリーをかみ砕く事もなく、ただコントローラーを握ってプレイしたものです。
ステージ1
今から悪魔城に乗り込むぜ!的な雰囲気抜群です。BGMもおどろおどろしくて、否が応でも気分が盛り上がります。
門を潜ると、庭に通じます。シモンの武器は鞭ですが、最初はリーチが短いので、キャンドルを破壊するとパワーアップアイテムが出るので、2段階で長さを伸ばすことが出来ます。
城の中に入ると大きな大理石の柱と窓、そしてカーテン、ファミコンのグラフィックで黒を巧みに使い立体感を出しているのは流石としか言いようがない。
キャンドルを破壊すると色々なアイテムがでるが、画面に写っているのは聖水であり、使用すると炎が上がり、敵にダメージを与える。
ステージ最後にはボスが待っているが、一面のボスは巨大蝙蝠。何となく顔がギャグっぽくなっている。放物線を描いて飛ぶ斧を利用すれば、結構楽勝
ボスを倒すと謎の球が出現。これは何なのでしょうか?宝玉?魂?よくわからいが、取得すると、ステージクリアとなります。
ステージクリアすると見取り図が、所々にステージの重要場所が書かれている。蝙蝠のマークはボスを現している。どんどん上に上がっていくようだ。このようなミニマップも「魔界村」に酷似している。
ステージ2
ステージ2は打って変わって陰鬱なステージ。敵も鎧男?やおなじみの蝙蝠たちが行く手を阻みます。ステージは上階へ昇っていきます。
途中で出て来る、メデューサは嫌らしく三角波の動きで背景は無視してきます。メデューサに体当たりされ、あわれ奈落の底へ・・・はよくあるミスパターンです。
ステージ2の終盤には、お約束のトラップも出てきます。最後の釣り天井はフェイントをかけるので注意!
そこを抜けると、なにやら怪しい石像が・・・ってバレバレです。2面のボスメデューサであります。ファミコンのグラフィックで見事に再現されたステンドガラスが美しい。
石像から首が離れ、悍ましい形相でメデューサが襲い掛かってきますが、鞭やアイテム連射で簡単に倒せます。石化は今回は無し
ダントツになりたいなら、「たったひとつの確実な技術」を教えよう
エリック・ベルトランド・ラーセン著の「ダントツになりたいのなら、たったひとつの確実な技術を教えよう」を今回は取り上げる。
ひさびさの啓発本のレビューであるが、精神論がほとんどの場合が多いこの手のジャンルにて、具体的な方法が書かれているのは特記すべきであろう。
そして、その方法は呆れるくらい簡単な方法であり、だれもが分かっている事であった。
ダントツになりたければ、単純にその事に対して時間を掛ければいい。
それだけの事であると本著は言う。
「そんなの誰でも知っているよ」
そう思ったあなたは正しい。その通りであり、そんな事は昔から言われていたのである。
だが、殆どの人は分かっていても中々実行できないのであり、それが一番難しいとも言える。
技術の取得に1万時間で一流になれるという法則が有名であるが、これは一日9時間それを行っても3年はかかる計算になる。
この法則は今や時代遅れと言われ、そんなものは必要ないという意見が多いと思うが、何事にもある程度の時間は必要であるのは間違いないだろう。
私のような一介のサラリーマンがそのような事を言うと、
「これだからおっさんは老害だ」
「長時間労働を正当化する諸悪だ」
「うんこやろう!」
的な批判を受ける事になる。
もちろん、適正や本気度によってそれが正しい道なのか見極める必要があるが、(仕事のミスマッチングによる悲劇が多いので、それがやりたいのかはかなり重要)
目標があるなら、それは適しているとおもわれますので、時間を費やす事は間違いでないと思います。
著者のラーセン氏は言わずと知れた「エリート」ですが、軍隊での厳しい試練を得て、コンサルタントとして活躍しているノルウェーでは有名人らしいですが、ここまでの内容だとよくある話なのではないでしょうか。
報酬は自分自身の体から出ている。
人はすぐに楽な選択をして、その安全な状態をコンフォートゾーンと言う。このコンフォートゾーンは啓発書によく出てくる単語であり、そこから抜け出せ!的な発言は啓発本ではお約束ある。
本書もその安全地帯から踏み出て、自分を(多少)窮地に貶める事で人間が(知力、あるいは体力)成長する事を説いているが、コンフォートゾーンを抜け出したあと、困難な問題に当たり、それを解決したときに感じる報酬を思い出す事を推奨している。
人によって目的は様々だが、結局人間は物理的な生物としての体の報酬を求めている。何か達成したとき、沸き上がる達成感は何事にも代えられないものがある、と感じる人は多いだろう。それは一見「高級車を乗り回して、綺麗な女の人を侍らせて、高級マンションに住む」といった世俗的なものから、「貧困者を助けるために、第三世界へ旅立って無償の奉仕をして人々の役に立つ」も実は同じことで、どちらも「達成感」「充実感」を感じて行っているのだ。
蛇足だが、もっとも簡単に体を弄る事で快楽を得る事が出来るのは「薬物」である。これは人間が生物である以上、機関のその部分を刺激すると、そういった快楽成分(エンドルフィンなど)が出るからだ。これれの薬は簡単に多福感を得られるが、それが切れた後、その薬の効果でそれを得ただけという現実に罪悪感が残り、結局続けて服用するしかなくなるのだ。
ラーセンは
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成功した事を事細かに思い出せ
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少しできないと思うくらいの目標をたてる
-
目標をすぐ思い出すようにする
-
ひたすらトレーニングする
これだけの事をすれば、だれでもダントツになる事が出来るという。
もちろんこれは大変な事であるが、これらを行うには「旧世代」的なものが必要になってくると思われる。
これはみんなが大嫌いな「根性」というやつだ。(私も嫌いだ)
理由や道標も示さず「根性」だけで押し切る上司を私はしっているが、そんな人は発揮言って無能だと思うが、一理心理もあると言える。
つまるところ
目標や、やり方は自分で考えるしかない。
ひたすら、その方法を繰り返すしかない。
そうすればダントツとなり、結果すべてを成功させる事が出来る。
だが、それには気合だけでは不可能であり、心と体はつながっているため、
まず、体に良い事をする。
ポジティブな事をイメージする。
少しづつ出来ていく自分を楽しむ。
中でも、体を壊してしまうと何もかもおしまいなので(そもそもポジティブに考えが行かない)体を整えるのは非常に大事である。
エリック・ベルトランド・ラーセン
ノルウェーのメンタルコーチ。元軍人、交通事故をきっかけにメンタルコーチへ転身。数々のスポーツ選手や企業のコンサルをしている。
本書はノルウェーで2年間ベストセラーになり、人口500万人の国で16万部というセールスを上げる。
何故アフロなのか?-寂しい生活
稲垣えみ子さんの著書「寂しい生活」を読破した。
彼女を知ったのは確か「報道ステーション」に出演した時であったと思う。その相貌もかなりのインパクトであったが、言動も一線を駕す発言であった事で興味をもった次第である。
稲垣さんは強烈な「ボンバーヘッド」であるが、すっぴんの顔は驚くほど若く、堂々とした物言いは、完全に他のゲストやキャスターを飲み込んでいた。
そして歯に衣着せぬ発言で、見ているほうが焦ってしまうほどであった。
その発言は「物質社会への警鐘」であったが、ミニマリスト的な発言はTV番組ではスポンサーに配慮して中々言葉に出来ないが、稲垣さんはそんな事はお構いなしに、
物はもういらない
物がなくても平気
的な発言をしていたので、スポンサーのセブンアンドアイなどに抹殺されない事を祈ろう。
寂しい生活はちっとも寂しくない
で、著作の「寂しい生活」は物質社会の雄である家電商品に焦点を当てている。
どの家庭にもある電化製品だが、本当はそんなものは無くても生活していけるのではないか、と稲垣さんは考えます。
そのきっかけは母親に高価な家電製品を買え与えても、ちっとも幸せではなく、むしろそれのせいで不幸になっているのではないかと(使いこなせない葛藤や、メンテナンスによる時間の浪費のよる)
そして、実は、TVも洗濯機も冷蔵庫も掃除機もいらない事に稲垣さんは気付きます。
稲垣さんはとてもストイックで、あらゆる電気を消して、自然に回帰していきます。
電気代は3000円になり、1500円になり、700円になっていき、そうして電気を使わない生活を続けると、稲垣さんはまるで仙人のようになっていきます。
オール電化マンションで、電気を使わない
そんな稲垣さん、よく理解もせずオール電化マンションに越してしまう。しかし電気でお湯を沸かす「深夜電気温水器」いわゆるエコキュートとの闘いが始まってしまう。
深夜電気を使用することで、料金を安くするように開発された電気温水器ではあるが、そもそも、資源を使いまくってエコと語るとはおこがましいと稲垣さんが思ったかどうか不明であるが、とにかく稲垣さんは深夜電力がお得なプランなるものによって、昼の時間帯が逆に料金が高くなったり、基本料金が高いことがどうにも我慢できず、オール電化マンションなのに、電気温水器のブレーカーを落とし、お風呂は近くの銭湯に行くという、もはや意味不明の状態になりつつあるのでした。
家電の大きさはエゴの大きさ
冷蔵庫の大きさは、欲望の大きさであり、大きければ無駄に何かをため込む事となる。
人は「いつか」という言葉をつかい、身の丈に余るものを買っていく、二人しかいないのに600リットルはいるような巨大な冷蔵庫を購入して、せっせと何かをため込んでいるいる人は居ないだろうか?なぜか一つの世帯に冷蔵庫がいくつもあったり、各部屋にTVが配置してある家庭はないだろうか?
もともと我々は有限の時間しか持ち合わせてはいない、TVを何台も同時に見る事がなければ、巨大な冷蔵庫にはいる「いつか」食べる食材もそんなに食べれるわけではない。
つまり、人生のサイズを失わせるのが家電というものなのかもし得ない。
そんなエゴから離れるために、稲垣さんはせっせと家電製品を処分していく。
そこに現れたのは、人間としての当たり前のサイズ感というやつなのだろう。
家電を捨てて、健康になる
稲垣さんは当然エアコンなんか使わない。夏は扇風機すらかけない、冬はなんと火鉢を使って暖をとっている。
すると、暑さや寒さに強くなり、ちょっとやそっとの寒暖などものの一つもしないくなるのであった。
そして、季節の変わり目が認知できるようになり、天候などの変化もわかるようになるというのだからすごい。と、いうか私たち人間は、原始の時代、季節を見極めながら暮らしていたのだから当然といえば当然であろう。私たちの体は、そのような微妙な変化を感じる事が出来たのだ。
それがいつの間にか、季節を忘れ、体がなまり、現代病というものに悩まされているのは、過保護された日常に問題があるという事なのだろう。
それは稲垣さんのような、家電なしの生活をしてみればわかるというものだろうか(とても全部は真似出来ないが)
究極の便利はねたきり?
稲垣さんはついに、築45年の古民家に住み始めます。
まるで隠者のような暮らしぶりが、何故かすごく素敵に見えます。
稲垣さんは世の中のめんどくさい事が、生きている証といいます。確かに便利といわれる家電に時間を奪われている人は多いと思います。所有することが、幸せになると思い込んでいる人はちっとも幸せでない事が多いのだ。
掃除機などなくても、物が散乱していなければ床は箒で履けば良いし、そもそも部屋が広くなければ、モップで十分なのだ。掃除機は一見便利のように見えるが、メンテナンスがいるし、それを出して掃除するというのが何となく楽しくない。コードも邪魔だし、掃除機を使うと余計時間がかかるという稲垣さんの言葉もよくわかる。
最後にIoTなるものは、果たして人間を豊かにしてくれるのであろうか?今のところ外からエアコンを入れたり、スマートスピーカーのお姉さんの声に卑猥な言葉をかける?くらいしかないIoTだが、究極は人間は寝たきりで、あとは機械に行ってもらう事のようだ。
そんな世界は誰が歓迎するのであろうか?そもそも人生はめんどくさいものであり、我々の体は動かすために存在しているはずである。
結論を述べる。
家電は確かに人々の生活を豊かにしたが、ありとあらゆるものが家電によって支配されてくると、人が逆に家電に支配されてしまい。その結果、時間、或いは人生を奪われてしまうので、ほどほどにしておくべきである。
体は自然に適応する。サバイバルボディー
私たちは快適を求めてきた。夏は涼しく、冬は暖かい。自然の過酷な環境を不自然に捻じ曲げて、体を甘やしてきた。
その結果、我々の体は以前より軟弱になり、もはや囚人の如く建物の中でしか生きる事が出来なくなっている。
それと伴い、病気になり易く、疲れやすい。何かしらの不調を抱えているのは、現代人なら誰でも心辺りがあるだろう。
アイスマンを知っているか?
アイスマンとは、決してアイスの愛好家ではない。ましては、浅倉大介の音楽ユニットでもない。*1
アイスマンとは、オランダの超人の俗称であり、その名をヴィム・ホフと言い、氷の中で低体温症にならずに何分もつかる事が出来たり、パンツいっちょでキリマンジャロを登攀してしまうおっさんの事だ。
日本ではR-1というヨーグルトの宣伝に出ていたことがあるが、日本では知名度がいまいちなため、ただのオッサンが雪に飛び込んでいるにしか見えないが、これで中々すごいからだの持ち主らしい。
R-1の宣伝では、このアイスマンのようにR-1を飲めば風邪などをひかない体になる事をを謳っていたが、普通にR-1は美味しいので、お勧めである。ちなみに飲んでいても風邪はひく。
で、このサバイバルボディーは、著者のカーニースコット(ジャーナリスト)が訝りながら、ヴィム・ホフのメソッドを行い、数々のサバイバルを行って、この効果を綴る内容なのだが、この本を読む前にヴィム・ホフに焦点を与えた書籍、その名もズバリ「ICEMAN」があるので、それを読んだあと読むと、アイスマンてスゲーってなり、この本著もすんなり受け入れる事が出来るであろう。
で、このアイスマンは中々変人ぽく、ノルウェーの山の中でセミナーなんかを行って生計を立てているらしいが、なんせそのセミナーは、氷点下の中パンツいっちょで歩き回ったり、呼吸を何分も止めてみたりする変態セミナーであり、その効果と言うのを疑わしく思って当然なわけだ。
そして、ヴィムのメソッドを受講した人の中には、不治の病を患っているものもおり、このメソッドのお陰で生きながらえているものもいるという。
現代は西洋医学が基準と考えられているため、当然ヴィムのメソッドは胡散臭いものであり、ジャーナリストである著者が、その真相を確かめると意気込むのは当然と言えよう。
アイスマンのメソッドは本物!
アイスマンことヴィム・ホフのメソッドの一つに「冷水」を浴びるというのがある。これは、冷水を浴びる事によって、褐色細胞と呼ばれる細胞が活性化し、いわば体の暖房のスイッチが入るという事らしい。
実は私も習慣として「冷水」を浴びるようにしているのだが、これが最高に気持ちいい。朝浴びれば、交感神経と副交感神経が旨く入れ替わり、体が目覚め、同時にポカポカ体が温まってくる。
冬場はかなり勇気がいるが、行えば静謐な気持ちになり、活力が湧いて来るのでお勧めだ。ただし、浴びるのは1分くらいにしておかないと、低体温省になるので注意!。
タイトル通りサバイバルボディとは、我々の体は原始時代から進化しておらず、もともと暑かったり寒かったりしても、体自体がそれを調節する機能があるのだが、現代社会で快適さを求めるあまり、その調節機能が麻痺してしまったのだ。そして、原始な体を取り返すことで、寒さや痛み、あるいは病気に打ち勝つ事が出来るというわけだ。
あと、アイスマンのメソッドで大事なものは「呼吸」である。呼吸の大事さは数々の文献でも書かれているが、アイスマンの場合、極限まで酸素供給を止める事によって、全身に酸素を循環させる事が出来、その時体は限界すら突破する事が出来るという。
すべての過酷は快感である
著者はアイスマンと共にメソッドの体験を記述したり、過酷なレース「タフレース」*2に出場した模様や、裸でキリマンジャロを登場した事なども盛りだくさんだ。
読み物としても、面白く、冷水や過酷なレースなどに出場したくなるに違いない。
そして「冷水」を浴び、心を整え、心と体はつながっており、自然に帰化したがっているという事を思いだして欲しい。
とりあえず、冷水を浴びると風邪を引かなくなるぞ!
エンドオブトンネル
事故で家族を失った男は、一人では広すぎる家に一人で住んでいた。
男は車いすで、地下にある仕事場?でパソコンを修理しながら、日々静粛に暮らすだけの毎日であるのだが、経済的困窮のため、2階の部屋を貸し出すことにしたのだが、そこに応募してきたのは、ストリップダンサーとその子供であった。
てなわけで、今回はプライムビデオで絶賛放映中である「エンドオブトンネル」を紹介する。
この映画どうやら、ブエノスアイレスが舞台という事でアルゼンチンの映画らしいが、つくりは非常に真面で、所々に散りばめられた仕掛けが、最終的に回収されていくさまがとても心地いい。
主人公のおっさんも中々渋いおっさんで、改めて外人はおっさんでもカッコいい事が認識される次第である。
ヒロインの見た目は、ケバイ感じであるのでこれは日本ではあまり人気がでなさそいうな感じだが、きっと現地では可愛い分類に入るのであろう。(鼻ピアスの時点でダメな気がする)
で、ストーリーだが、おっさんが地下でパソコンを弄っていると、奇妙な音が聞こえてくるので、壁越しに聞き耳を立てると、壁越しの部屋に何人かが居る気配がするのだが、どうやらそれは地下を掘って銀行に侵入しようとする、銀行強盗らしかったのだが、
どうやらこの主人公のおっさんは「オタク」らしくて、パソコン技術を駆使して泥棒の挙動を監視しだすのだが、監視している内に、強盗とヒロインそして、それを操るグッドマンという刑事が居る事が分かる。
さて、いくつもの状況を得て、主人公のおっさんは金を横取りすることを画策するのだが、おっさんは足が動かないので、対抗するには手に入れた情報を旨く使いながら、クリアしていくのが中々面白いし、よくできている。
展開的にはよくあるパターンであると言えるが、まとまっており、最後はハッピーエンドであるので、安心して視聴する事が出来るのではないであろうか。
たのしい縮小社会
我が日本は人口が減っているらしい。このままで行くと2055年には1億人を割り込むという。
これに対して、人口減少は国力の低下という事をよく耳にするが、本当にそうなのだろうか?
欧州各国に比べて、日本は人口が多いし、密度も過密である。日本より人口が少ない国の方がより豊かに見えてしまうのは何故であろうか?
もはや、高度成長が日本に訪れる事はなさそうであり、(世界的にもなさそう)十分成熟したと考えれば、縮小というものは決して悪くない気がする。
身の丈にあった暮らしをすれば、人口が少ない事はむしろメリットがあるのではないだろうか?現に物欲に晒されているのは、いつだって前世紀の年よりばかりであるし、若い人達は倹約をして、べつに物がなくても楽しめる方法を知っていると思う。
だから、人口が少なくなって色々なものが過去に戻るとしても、人間のシステム(体の事だ)は大昔のままなのだから、それを受け入れれば良いと思う。
で、今回の「たのしい縮小社会」は対談と言う形で、縮小していく社会を受け入れようという考えを伝える本だ。
一部主観がはいっているが、概ね賛同できる内容であった。
そして縮小しても、一般市民は問題があまりないので、発達したインフラを少人数で使用できるというメリットがあり、日本が行ってきた「工業化」「発展」というものから一歩引いたものがこれからの「限られた資源」を分配するヒントになるかと思う。
印象的であったのが、電通の標語であり
- もっと使わせろ
- 捨てさせろ
- 無駄遣いをさせろ
- 季節を忘れさせろ
- 贈り物をさせろ
- 組み合わせてかわせろ
- きっかけを投じろ
- 流行おくれにさせろ
- 気楽に買わせろ
- 混乱を作り出せ
どうだろう?あなたが営業職であればこれらの標語は、どこかあてはまりそうではないだろうか?
つまり、貴重な資源をむりやり買わされ続ける事が、いまの日本社会に蔓延しているという事だ。
だが、本当に必要なものは、そういった意味のない、便利そうに見えて実は全く役に立たないものばかりなのである。
さあ、もう必要のないものは捨てて、今すぐ大切な人と話でもしようではないか。
野生の遠吠えは原始の音色 柴田哲孝「WOLF」
日本オオカミが絶滅して100年強、動物園で見たオオカミはデカいシベリアンハスキーのような風貌であったが、その顔つきは明らかに人間に媚びない荘厳さを兼ね合わせていた。
つまるところ、完全に自然の体をしており、その迫力は飼育されていても変わらないものであった。
で、今回は柴田哲孝の「WOLF」であるが、著者の「TENGU」等を読んだ方は、ノンフィクションに近い語り口で、引き込まれるストーリーである事をこの「WOLF」は健在であり、自然ファンタジーが好きな方は溜まらなく面白いはずである。
山登り、キャンプ、自然動物、もっと言えば、ディスカバリーチャンネルやナショジオなどが好きな方にもお勧めできます。
ノンフィクション作家・有賀雄二郎のもとに、林野庁の埼玉環境保全担当から突如連絡が入った。奥秩父の両神山の麓に“山犬”らしき大型動物の群れが徘徊しているという。息子の雄輝と共に現地に向かった有賀は調査を開始。カナダの大学で森林科学を学ぶ雄輝は、被害の様子をみてニホンオオカミではないかと仮説を立てる。次々に人を襲い始めた“山犬”に危機感を抱く2人は捕獲作戦に協力、正体に肉薄するが…。
あらすじより
埼玉県の山林に現れた謎の「山犬」、それの正体と有賀親子との闘いが見ものであり、その正体がわかる瞬間はミステリー小説のようで、最高に盛り上がります。
また、自然破壊や動物愛護の問題提起であり、「オオカミ」を巡る騒動を通して、自然の不可思議さを垣間見える展開で、最後の「山犬」の運命も意外な結末を迎えます。
途中の著者のうんちくや、ややハードボイルド的な有賀雄二郎のセリフなど非常に入り込みやすい展開です。
どちらかと言うと「TENGU」の方が完成度が高いと思われますが、この「WOLF」は私が山登りに興味があるので、非常に面白く読むことができた。
ぜひ「TENGU」「WOLF」読んでみてください。そして、「KAPPA」などをキンドルで発売して欲しいなあ