どうして少年はファンタジーに憧れるのか?ホビット竜に奪われた王国。
以前のエントリーで、映画「ホビット」の事を書いたが、今回はその続編「ホビット竜に奪われた王国」について書く。
本作はトールキンの名作「ホビット」の3部作の2作目にあたる作品だ。
ホビットのビルボがドワーフの王国の復興を描く作品だ。
原作は「指輪物語」より古いが、映画は新しいので、トールキンの描く世界は見事なCGとして再現されており、見るものを圧倒させられる。
特におっさんは、この「ホビット」「ドワーフ」「エルフ」など言う単語に弱く、過ぎし日の少年の日々を回想している者も多いのではないだろうか?
実はこのホビットを思って、改めてトールキンの「指輪物語」「ホビット」は大人向けの内容であるなと感じる。
と、いうのはこう言ったファンタジーが日本に上陸した20数年前は、このホビットやドワーフという亜人の設定はあまり受け入れられない感じであったからだ。
つまり、ヒロイックなファンタジー場合、カッコいいエルフやイケメンの人間以外のキャラクターは主人公には成り得なかったという事だ。
ズングリムックリで、小人であるホビットやどう見ても中年の醜さ全開のドワーフを、D&D(テーブルトークRPG、とても流行った)でやりたい人は少なく、誰もがエルフや人間をプレイしたがったのである。
それは少年ジャンプ的な要素で、ヒーローは強くカッコよくがモットーだからであろうか?実際このトールキンの「指輪物語」よりマイケル・ムアコックの「エルリック・サーガ」やドラゴンランス戦記のほうが子どもたちには人気があった。
だが、前回のエントリにも書いたが、物語としては「勇者コナン」みたいな強者が戦うより、「ホビット」のビルボのような非力な平和主義のホビットが頭脳を使って戦うほうが、非常に面白い。
この竜に奪われた王国は3部作の真ん中という事で、ビルボの活躍はやや控えめ、代わりにドワーフの仲間と王子トーリンの葛藤やその背景が語られる。
そして竜「スマウグ」との迫力な戦闘、港町に住む弓の名手のバルボとの確執、最終章のために役者が揃った感じが、とても面白いです。
この2作目まで、amazonのプライムビデオで見れるので(3作目は有料ですが)おもろいので是非会員の人は見てみてください。
穴を掘れ!埋めろ!ロードランナー
今回は「ロードランナー」を書く。かなり古いソフトだが、元々はパソコンゲームであった本作は、1984年にファミコンに移植された。
パソコンゲームが元祖で、後にファミコンに移植されるというパターンは、結構あって、そこには結構ドラマがあったのようで、このロードランナーにもドラマがあったらしい。
原作者のガイジン「ダグラス・E・スミス」さんはこのロードランナーを作成した時は学生だったそうだし、このロードランナーがきっかけで、富を手に入れた人である。
最近なら「フェイスブック」のマーク・ザッカーバーグ氏みたいなものであろうか?(わたしはフェスブックはやっていないが、映画ソーシャルネットワークは映画館に視聴しにいった)
このような若者がゲームで金脈を当てるというのは、まさにドリームでこの作品「ロードランナー」には、そういった若者のアイデアみたいなものが詰まっている(ような気がする)
ゲーム自体は今は殆ど無い、アクションパズルでプレーヤーは穴をほって敵をかわして金を集めて脱出するとゲーム、と文字で起こすとまるで面白そうには思えないゲームだが、付属のエディット機能を使うとオリジナルステージが創れて、当時1年に一本くらいしかゲームが買えなかった少年達には重宝する機能であった。
この穴を掘って、敵を埋めるという、それだけのゲームにアメリカンドリームなるものが含まれていると思うと、なかなか感慨深いが、より高度なテクニックを要求される「チャンピオンシップ・ロードランナー」が後に発売されるが、こちらは急に難易度が上がって(通常のロードランナーが1だとすると、チャンピオンシップロードランナーは一気に10くらいの難易度だった)小学生を置いてきぼりにしてしまう仕様であったが、このゲームがいかに良く出来ていて、初級者から達人まであそべるゲームとしての本質があると言えるのではないだろうか?
実験しよう!そうしよう女神転生
さて、最近バナー広告等で「女神転生ファイナル」なる言葉が踊っている昨今だが、懐古ゲーマーとしては、「まだやっていたのか」という感想が多いと思う。
で、今回はその「女神転生ファイナル」の最初のファミコン版「女神転生」を語ることにする。
「メガテン」の異名で愛された同シリーズは、独特の背徳感を匂わせたシリーズで、比較的硬派なイメージである。時代の流れで、なんとなくキャラゲーぽくなってしまったが、ファミコンやスーパーファミコン当時はまだまだ硬派なゲームであった。
ゲーム内容はオーソドックスな3DダンジョンRPGであり、当時同じように流行ったウイザードリィの様なインターフェイスなのだが、世界観が現代である事と、このゲームの肝である合体システムが秀逸であり、むしろその合体システムがこのゲームの全てと言ってしまっても過言ではないほど、よく出来ていたのだ。
ゲーム中あることをすると、その敵であるモンスターが仲間になる(これを仲魔と呼ぶ)その仲魔をこともあろうに、掛けあわせて新しいモンスターを造る事が出来たのだ。
その配合さによって、人と違うモンスターが造れるものだから、どんどん仲魔にして、どんどん新しいモンスターを造るのが楽しくなるという事なのだが、(勿論、そう簡単に強いモンスターは造れないのが、バランスとしておもしろかったのだ)
よく考えて見ると、何だか不気味な話である。
モンスターは外観が人間に似通ったものも多く、実際仲魔になる時、言葉をしゃべるものも多い。そのようなものをいとも簡単に掛けあわしてしまうというのが、人間史上主義のような考え方で、(考えすぎだろうが)不気味な雰囲気を醸しだしていると言えよう。
例えば、あなたが飼っている犬と金魚を配合しようとは思わないだろう。配合されたものは犬でも無ければ、金魚でもない、何かになってしまうだろうし、例えそれがとても役に立つ生物であっても殆どの人は、その行為に嫌悪感を覚えるだろう。
ところが、そいつが悪魔というものであれば、それを正当化してしまう。これは、旧ドイツのナチ党が掲げた「優生学」やドフトエフスキーの「罪と罰」で描かれた「天才は別格、それ以外は死んでも構わない」的な理論にすり替える事ができてしまうものでは無いだろうか?(無論考えすぎだろう)
あくまをころしてへいきなの?
と女神転生の悪魔は言う。
悪魔は生かしておいてはならない*1と書いたのは旧約聖書だが(実際は魔女である)昔から人は、自分以外の生物は殺して構わないと思っていたのだ。
こんごともよろしく。
だが、そう言う悪魔達に愛着が湧くのも、また事実である。
音楽もいいですよ!
*1:出エジブト記
子どもたちはいつも冒険に。Mother2~ギーグの逆襲。
近所の原っぱや、廃屋のある不気味な池。そんなのが大冒険の始まりであった。的な書出しの少年系の漫画や小説はよくある事であるが、少年には少年だけ見える風景がある事をその当時少年だった人は思い出してほしい。
そのキラキラした躍動感あふれる風景こそ、今回紹介する「Mother2」なのである。
学校の先生をホブゴブリン(大きい鬼、小さい鬼の事をゴブリンと呼ぶ。ちょっとだけ強い)と仮定して、見つからないように何かを行うような事をした事があるようなら、このスーパーファミコンソフト「Mother2」はきっと気に入るであろう。
この「Mother2」は少年たちが、学校帰りに行う冒険(とよんでいる遊び)を具現化したものと言えばわかりやすいであろう。
少年少女がある日、平凡な日常から逸脱し、大冒険に出て、結果世界を救う。そこは親が介入できない子供だけの世界で起きていて、悪いやつはトコトン悪く(それでいて、人は殺めない)自分たちは無敵なのだ。
この「Mother2」もギーグの野望を防ぐという大義名分があるが、ただ目の前に冒険が広がっているという表現のほうがしっくり来る。
子供の目に写るものは、ただの階段がダンジョンであったり、怖い隣のおじさんが悪魔の使いであったり、団地脇の林が秘密基地になったりするのだ。
こういったノルスタジックな感情をただのおっさんの戯れ事と思う方もいると思うが、誰でも形は違えど、同じような体験をするものだと思う。
そう、若い人は常にその前の世代に疎まれるのだが、それは常に起きていることであり、おっさんが若いころもやはり同じように、その前の時代の人間に「何を考えているか分からん」的な事を言われていたのだ。
このような事をうまく作品にしたのが、漫画なら「20世紀少年」で、ゲームならこの「Mother2」なのではないだろうか?
男には戦わなければならぬ時がある。戦いの挽歌
鋼の縦と、鋼鉄を叩き上げて作り上げた片手剣を持ち、悪の軍団相手にたった一人で立ち向かう男がいる。
それが「戦いの挽歌」である。
核戦争後の荒廃した世界を統率している剣王を、あらゆる剣技をマスターした主人公が立ち向かう様を描いたファミコンソフト「戦いの挽歌」は、当時の世相をよく表した秀作であるのである。
まず、このソフトが発売された1986年は、まだ冷戦が続いており、核戦争の話題が未だ現実的にあった時代であり、その世界観は少年ジャンプに連載されていた「北斗の拳」にかなり似ている。(というかソックリである)
暴力で支配された秩序の無い世界で、自由を取り戻すというのも似通った設定だし、敵のボスが剣王アキレスと拳王ラオウで字が違うが、どちらも読み方が一緒だ。
今なら、その似通った設定に何らかの異論が唱えられる可能性があるが、当時は「北斗の拳」の空前的ブームに則り、あくまで「オマージュ」的な存在が許されていたのであろう。
で、この渋いタイトルは暴力には暴力を振るう、なんだか救いようにない内容なのだが、出て来る敵の勢力が中世の鎧を着込んだ化物と形容するしかない、謎の人間達なのだが、所々で近代兵器を操る不可解さがいい味を出しているようだ。
つまり、剣と盾で戦う主人公に合わせて、銃などの兵器は使わず、あくまでナイフやら、手に仕込んだ鉤爪であったり、鉄球などの扱いにくい武器を使う辺り、以外に敵もジェントルメンなのかもしれないと感じるのである。
ひょっとして、敵の剣王も何か理念に則って、止むを得ず暴力で統治しているのではないだろうか、とか訝ってしまう。
そもそも、何かに統治されなければ、不安定な勢力があちこちで無秩序でもっと酷いことが起こる可能性はあるので、そういった意味では剣王の統治もあながち悪いことでは無いのかも知れない。むしろ剣王を悪と決めつけ、同じように暴力で解決しようとするアメリカ的な考えこそ問題があるのかも知れない。
剣王を倒した後の世界は語られる事は無いが、その後は主人公がこの世界を統治したが、結局剣王の代わりになっただけで、支配が続いていく・・・なんて結末だったりして、
で、このゲームまったく女性が出てこない硬派なゲームであり、出てくるのはイカレタヘビィメタル系のおっさんばかりというのが、ある意味「戦いの挽歌」なのだろうか。
最近の忍者は忍んでいない。忍者龍剣伝。
忍者という言葉に魅せられた人は多い(特にガイジン)だが、どうして忍者の格好をしている人が(特にガイジン)あんなにもかっこ悪いのだろうか?
忍者とはいわゆる暗殺者であり、イスラム圏ならアサシンと呼ばれるものと同義語であり、決して表舞台にでる事は無い影の功労者という感じなのだが、どうやら最近はその忍者は表に出てくる傾向があるらしい。
今回のテーマはテクモから出ているファミコンソフト「忍者龍剣伝」を取り扱う。
このソフト、当時でも中々人気があったソフトらしいが、相変わらず難易度が高く、まだ年端のいかぬ少年たちを豹変させて、カセットを叩きつける激情に駆られる事を許した稀有なソフトとも言えよう。
まあ、ようするに難しいという事だ。
ストーリー*1
龍の一族の末裔であるリュウ・ハヤブサは、決闘に敗れ帰らぬ人となった父の遺書に従い父の知人に会うため渡米する。しかし、アメリカでリュウを待っていたのは謎の軍団の襲撃だった。襲撃を退けてリュウは一人の女性を救うが、その女性の麻酔銃によって捕らえられてしまう。牢で目覚めたリュウに女性は謎の像を渡し、逃げるように告げるのだった。
しかし、名前がリュウ・ハヤブサとはすごい、漢字で書くなら龍隼だろうか?短くてなんだか変だが、どちらが名前か苗字が分からないのがすごい。
そして一番すごいのが、ステージの初めと後に入るビジュアルシーンだと思う。
当時のファミコンで、ストーリーを劇画調の絵で再現しているのが、中々見どころがあって、多少お約束のストーリーでも思わず見入ってしまう。
だが、当時のちびっ子たちは、最後のキスシーンでどう対応していいかわからず、狼狽してしまう事必須で、ゲームを順番ずつ変わってクリアした後、ポカーンとなってしまったのには開発陣も意図的なのだろうか?と疑いたくなるレベルである。
で、結局邪神てなんだったのだろう?
是非、ジェームスロギンズで小説版を書いて欲しいものである。
*1:wikipediaより
自由になりたくないかい?と歌った尾崎豊はもういない
はるか昔、ロックに生きるというのは反体制という意味の他に、自由に生きるというのがあったと思う。
そもそも自由に生きると言うのは何なのだろうか?
我々の社会は基本的に自由な社会と言われている。
他人の利権を侵さないかぎり基本自由のはずなのだ。
あなたが突然、自由に生きると言い出して、会社を辞めて、家族を捨てて、山に篭ってドラクエの賢者のような暮らしをしても、基本自由だ。(もちろん税金などの義務は発生するだろうが)
だが、我々を呪縛する何かは、それをする事に非常に冷たい。
あなたが、突然ロックに生きると言い出したら、あなたの家族はどう言うだろうか?。
親は配偶者は子供は、
そんなの関係ない、といえるのは中々いないであろう。
そもそもそんな事を言ったら、まるで犯罪者のように扱われ、あなたの自尊心を失わさせるであろう。
人はもともと心配するいきものである。心配しない生物がいままで生き延びる事はできないし、それは人間というDNAに刻まれた大事な部分でもあるのだ。
で、いざ自由になるために自己啓発本やセミナーなどに参加してみても、
「やっぱり無理だよなあ・・・」
みたいな感情にとらわれてしまう。
あるいは、リスクはつきものなのだが(なんでもこの世はトレードオフなのだ)リスクを抑える事だけを考えてしまい。アイデアを犠牲にして安全牌を切る事に終始してしまうなどだ。
先日SMAPが独立に対して揉めたというニュースがあったが、あれはサラリーマンが感じる自由の戦争に敗れた感覚に似ている。
自由を渇望するには、今の自分の生き方を捨てなければならない。
自由になりたくないかい?熱くなりたくはないかい?
と歌った尾崎豊はもう死んだが、その生命をもって自由を勝ち得たのかも知れない。