ジャンクな脳と記憶

本を通じて人生の幸福を考えています。

疲れた大人は見ちゃダメ!「プーと大人になったぼく」


 

 

 

ウォルトディズニーの超有名キャラ「くまのぷーさん」のその後を描いた作品だが、子供向けの作品をリアルに置き換えると、そこには大人ゆえの欺瞞と矛盾が生じて、無垢な子供時代に培った真っすぐさを失う事で大人になったという事が、分かっているようでわかっていない事が分かる映画である。

 

親友のくまのプーや仲間たちと別れてから長い年月が経ち、大人になったクリストファー・ロビンは、 日々仕事に追われ、会社から託された難題と一緒に時間を過ごせない家族との問題に悩んでいた。 そんなクリストファーの前に突然現れたプー。久々の再会に、喜びと懐かしい日々を感じながらも、 また仕事に戻らなければならないクリストファーに、「仕事って、ぼくの赤い風船より大事なの?」とプーは問いかける。 彼が忘れてしまった本当に「大切なモノ」を届けるために、プーと仲間たちは100エーカーの森を飛び出し、 彼が家族と住むロンドンに向うのだが・・・。 主役のクリストファー・ロビンを、『スター・ウォーズ』シリーズの名優ユアン・マクレガーが演じる。 『美女と野獣』のディズニーが「くまのプーさん」を実写映画化した感動の物語。

 

アマゾンプライムビデオからあらすじ

 

てな感じで、一人だけ大人になってしまった「クリストファーロビン」はあのころと変わらない、100エーカーの森の友人が目の前に現れても、それを「迷惑」と取る。

それは当たり前で、無垢な子供時代と違い、仕事を持った大人はいつだって第一優先は「仕事」であり、子供の頃に大事にしていた「友人」はもはや二の次になってしまったのである。

 

クリストファーの娘や森の仲間は言う「クリストファーロビンは「仕事」が一番大切なんだ」

 

ここで、世のお父さん達は声を上げて言うだろう

 

ちがうんだ!俺が働いているのはみんな家族のためなんだ!

決して仕事が好きなわけではないのだ、家族を養うため俺は第一優先を仕事にしているのだ。

 

だが、みんな気付いているのだ。本当は

 

成功と幸せは違う事を、

 

この「プーと大人になった僕」はとても切ない話だ。

誰だって、家族や恋人と一緒に居たいと願うのに、そのためにワークバランスを崩しながら、何時間も耐えて仕事をするのに、

仕事を重視するほど、家族は離れていき、

結果的に、何のために働いているのかわからなくなるのだ。

 

さあ、この映画を見たら家族と話をしよう、

そして一番大事なのは、きっと単純なものであるはず、

そして、それはそんなにコストはかからないと思うよ

本当に大事なものが手遅れにならないように

 

*映画はハッピーエンドなので、安心して鑑賞できますよ。地味にCGがすごい。

 

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クリストファーロビンとくまのプー

 

 

 

ジャンル:ハートフルコメディ

感動度   ★★★

おすすめ  ★★★★

気分 「仕事に疲れた時、家族と行き違いが多いとき」

 

 

 

 

 

 

目的無い世界はどうもこうも

 いつの間にか2019年になっていたが、年末から鬼の忙しさにて、全く余暇がなく、今日正月休みが終了して、ようやく一息付いた次第であるが(昼から仕事なのだが・・)

 

 寝る前に幾らか本を読んでいたが、いつの間にか寝てしまっていたので、ここで紹介するようなものは余りないが、どうも心に刺さるのは、ダウンシフト系のいわゆる「仕事を抑えて余暇を大事にする」的な本ばかりだ。

 どうも疲れているらしく、(その割に熟睡できない・・これは鬱の兆候か?)頭が仕事嫌だ的な思考(端的に言えば、拘束時間の多さに不満)が頭を支配していて、全く浮かない気分である。

 

正月唯一元旦が休みであったため、近くの神社へ願掛けに嫁といったのだが、(その前に嫁と大喧嘩した、原因は準備を全く私がしなかったためらしい)

世の中の浮かれ具合に比べて、自分の境遇のショボさに涙が著著切れそうであった。

 

まあ、新年早々浮かない気分であったという事だ。

 

でもって、ブッダの言葉にあるように「迷いが出たら振り出しに戻る」的な思考の元に、私が欲しているものを考えると、

 

1.余暇

2.余暇

3.余暇

 

って休みが欲しいだけじゃんか!

 

それが何が悪い。休みがあればそれで幸せの人もいるじゃないか(私の事だ)

 

休みがあればこのブログももう少し更新できるのではないだろうか?

近所の山に出かける習慣も、忙しさにて中断したままだ。

 

これはどうした事だ、て、事は休みが多い会社に転職すれば、それで済む話だったのか?

 

だとしたら、嫁にそれとなく伝えて、転職活動するしかないであろう。

 

条件は

休みが多い

残業は少ない

ノルマは無い

体力は使わない

キチ●イがいない

給料は高くなくていい

 

よし!検索だ!

 

・・・・・

・・・・・

 

該当なし

 

 

まだまだ旅は続きそう・・・

 

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引いたおみくじ

*おみくじは大吉でした。願い事は早くしろ的な事なので、早く帰れる仕事が見つかるといいな!

人を動かしたいなら、「やれ」と言ってはいけない―思い通りに部下が動く“すごい”伝え方 ー妄想書評ー

 

 

前回についで妄想の書評を致す。この書評はまったく本の購入に寄与しない内容である。(そもそも読んでいない)タイトルなどを見て勝手気ままに書きなぐるものであり、なんの役にも立たないものである。

そもそも本屋で立ち読み文化が無くなった今となっては、アマゾンなどの電子書籍とか通販などでは本は博打に近くなってしまったので(試し読みとかレビューとかは今や役に立たなくなってしまった)どうせなら、もうタイトルだけで中身を決めてけてしまおうというのが趣旨だが、本当はネタが無いので適当に理由をつけているだけだ。

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紀伊国屋書店のランキングに「おっ」と思うもの(タイトルだけだが)あったので、今回は

人を動かしたいなら、「やれ」と言ってはいけない―思い通りに部下が動く“すごい”伝え方

という長いタイトルのビジネス書を妄想してみる事にする。

 

ところで、ビジネス書は、〇〇にてCEOとなり、ベンチャーの起業をした的な仰々しい経歴ばかりなのだが、こういったオレオレ的な発想の御仁が、自分のやり方を教えてやっていいぞ的な事で書くのだろうか?

たまには全然成功していない、ちりめん屋のオヤジの人生哲学みたいなのを出したらどうだろうか?まぁ売れないだろうが。

 

で、タイトルからして悩める管理職が読むであろう内容であろうか?バブル世代のおっさんが厳つい顔(なぜ彼らはいつも厳つい顔をしているのだろうか?)をしながら、中々言うことを聞かない若者の部下に業を煮やして、この本を手に取り、そうか!この手があったか!的な事を思うのであろうか。

 

こう言えば、こう返すというテンプレートが成り立つほど若者は愚かではないと思うが、ここでおっさん部長の田中部長がいたとする。

 

田中部長は叩き上げで、営業成績が認められ部長に昇進したのだが、彼の部下である新入社員鈴木くんは、どうも田中部長の言うことを馬鹿にしている風がある。

事あるごとに田中部長は「営業は足で稼ぐものだ!そこには楽な道はない!」と自分が叩き上げられた理論を部下たちに披露する。ところが、最近の若者はそういった理論が心に刺さらないらしく、事あるごとに「はあ」という気のない返事をするだけである。

 

「おい鈴木、お前はお客様への返礼をワープロで書いているそうじゃないか」

「はあ、そうですが」

「いいか、お客様への返礼はちゃんと手書きで書け、俺なんか筆ペンで何百枚と書いていたぞ、そうしないと心は伝わらないものだ」

「でも部長、顧客データーはデーターベースから直接印刷できるので、そのほうが効率が良いですよ、顧客もキレイに整えられたフォントのほうが読みやすいでしょうし」

 

若いやつはいつもそうだ、合理的とか効率とか生産性とか、俺が一般職だった頃は部長の言葉は金言であり、必ず服従の啓示のようなものだ。それをコイツは事にかいて「はあ」とか「出来ない」とか平気で言いやがる!

最近の若いやつはなっとらん!!!!

 

的な事はよく聞く話だ。

時代の違いと言ってしまえばそうなんだろうが、おっさんにはおっさんの言い分があり、若者には若者の言い分があるから、議論は噛み合うわけがないのである。

おっさんは自分の過去と照らし合わせて、何故自分のようにしないのかが疑問だし、若者は若者で何故、そんな現代的でなくかつ非効率な方法、そしておっさんの仕事命!という精神が理解できず、まるで異物を見るような扱いになるのは当然だ。

 

そんなおっさんは、言わば異世界から現れた若者を扱うため(都合の良いようにだが)このような本を手に取るのであろう。

 

ちなみに私がまだ若かった頃はロックブームであり、「世の中の歯車になるな!」的なメッセージが、頭がクシャクシャで逆だっていた(色も付いていた)歌手から発せられて、それを鵜呑みにする若者が一定数いたが(私の事だ)

ある意味、今の若者は図らずともそうなったのではないのだろうか?

もちろん、逸脱する事がない分、今の若者のほうがマシな気がする。

 

読んだ方、ぜひ内容を教えていただきたい。 

 

 

 

ゼロトレ―ZERO TRAINING 羽が生えたように軽くなるー妄想書評

 

 

まず、前置きをしておく。いままで適当な書評を書いていたが、どうやら誰の心にも刺さらない事を良いことに、あたかも「俺は意識高い系」みたいなフリをしていたのだが、自己啓発系は言ってしまえば「妄想のヤル気」的な文面がほとんどで、共感は出来るのだが、どうも自分は根っからのネガティブ野郎らしく、そういったものに一時的に感化されるのだが、すぐ弱音を吐く、言わば北斗の拳に出てくる「ラオウ」*1の対局にあるような人間なのだ。

そういったしょうもない人間がいくら、為になる的な本を読んでも、うがった考え方によって馬の耳に念仏*2的なものになってしまう事であろうし、著者から見ると絵に書いたようなダメ人間と罵倒されているような気がするのだ。

 

「だからお前のようなやつは駄目なんだよ」

「うるせえな、俺は俺の個性で生きているだ」

 

みたいなおっさん中二病を炸裂させて、言われてもいないのに俄然不機嫌になってしまうおっさんの書評など誰も興味などはないだろう。

というわけで、今回から読んでもいない本を勝手に想像して書評を書くという愚行を起こすことにする。

 

「え?意味がわかんないだけど」

と思った諸兄姉は正しい、俗にいうこういった事は「迷走」と呼ぶのだから。

 

で、早速くだらない妄想書評を書こうと思い立ったのだが、どうせならネタ的な

「劣勢からの逆転力 ガッツの知恵 ガッツ石松著」*3

みたいなタイトル見ただけで、もうどうでも良いものなのではなく(この本なら、もう読まなくてもタイトルで内容がすべて分かるので、非常に秀逸なタイトルだ)

一番ベストセラーなものを選んで見た。紀伊国屋書店で2018年8月11日時点で1位の売上を上げている「ゼロトレーZERO TRAINING 羽が生えたように軽くなる」だ。

タイトルだけ見ても、いったい何のジャンルなのかわからないが、おそらく啓発系の本であろうか、ゼロなんちゃら的な本の一派なのかもしれないが、体が軽くなるという文面があるので、まさかスピチュアル系か健康系か(どちらも人気のジャンルだ)とにかく売れているという事は、万人の興味がそそる内容に違いない。少なくともガッツ石松よりは万人受けするであろう。

 

ゼロトレというくらいだから、なにか練習しなくても達人になるという事の指南書であろうか?

しかし程度こそあれ、何かを会得するにはトレーニングは必要なのは、人間であれば当たり前のように思えるが、なんらかの裏技が記載されているものなのだろうか?

 

あるいはトレーニングなどしていない言わばニートのような人が、実は一番優れているという論理が繰り広げられるいわゆる応援的な本なのであろうか?

 

まあ、ともかくこの「トレーニング」というものは私のような人間には辛い思いでしかなく、ここで言う「トレーニング」というキレイな語録とは程遠い「シゴキ」というもののしんどさが思い浮かぶ次第である。

 

昭和生まれの方なら同意を得られそうだが、当時のスポーツ系のトレーニングはまんま「シゴキ」であった。

今なら問題になる「ウサギ跳び」やら「水は禁止」、すべて根性で切り抜ける的な(ここに来て再びガッツ論か)ものを思い浮かべてしまう。

そもそも中高生ぐらいの年頃はスポーツが出来ないと、蛇蝎の如く嫌われる傾向にあり、非モテである我々は否が応でもスポーツ部に入る事を(勝手に)強制される。

 

結果軟弱な人間(私の事だ)は3日で逃げ出し、「逃亡者」として残りの学校生活を送らなければならないのだ。

 

「逃亡者」はまるで「脱走兵」が如く嫌われるものなのだが、そもそもそんなに好かれていないのであまり気にならなった。そもそも「逃亡者」というレッテルが付かなくても「もやし」とか「貧乏」とかあだ名は付いていたのでもうこれ以上はスキルは不要であった。

 

結論を述べる。

この 「ゼロトレ―ZERO TRAINING 羽が生えたように軽くなる」はトレーニング中に逃げ出す軟弱者「逃亡者」でも平気になり「しょうもない人」に成り下がる本ということに決定しました。

読んだ方はぜひ感想を教えてください。

 

 

 

 

*1:漫画北斗の拳に出てくる主人公ケンシロウの義兄であり、最強の敵。ワイルドな風貌で腰に荒縄でも巻いていそうな男で豪快なイメージである

*2:馬にありがたいお経を聞かせても無駄ということ、つまり意志の弱いデブにダイエット本を与えても無駄という事である

*3:人生で大事なことは、「転ばないこと」ではなく、「転んだときにどうするか」だ。人生を変える48の言葉。青志社 (2009/1/24)これを自己啓発書として選択した青志社の編集者の敏腕さが伺える

それにすべての人間は支配される「習慣の力 The Power of Habit」

 

皆さんは毎朝起きると、顔を洗いコービーを飲み、朝食を摂ったり、スーツに着替えたり、だいたい順番が決まっているのではないだろうか?

それらは特別意識しなくても、無意識にルーチン通り、正確に行われる事があたりまえ過ぎて、その事すら気にかける事も無いのであろう。

この「習慣の力」はそのありきたりな習慣にスポットを合わせた書籍で、言い換えれば習慣というやつに我々は支配されているとも言えることを、改めて思い出させる良書である。

 

私達の脳は疲れやすく、エネルギーが必要な器官だ。その脳を常に覚醒させて、いちいち目の前のことを考えていたら、すぐにエネルギー切れを起こしたり、疲労のため動けなくなってしまってしまう。それに目の前のドアを開けるのに、色々な判断や可能性をその度考えていたら、前に進むことすらできないだろう。

習慣とは脳が作り出した、最も合理的な生き方なのだ。

 

悪い習慣と良い習慣

例えば、毎日の運動などの習慣は良い習慣と言えるだろう。それが、毎日の飲酒やギャンブルなどは、大体の人は悪い習慣と思うのではないだろうか?

だが、習慣は悪いものも良いものもメカニズムは同じだ。それにはきっかけとルーティン、そして報酬が絡んでいる。

悪いものも良いものも、その人にとって報酬があるから習慣となるわけで、それが運動をすることによって自分の体が引き締まって気分が良いとか、あるいはギャンブルで当たる事によって射幸心を煽られ、結果幸福感に包まれるので習慣になる、などだ。

 

だが、どれも自分の習慣の正体を知ることによって、その習慣を変える事ができる。

チョコレートを食べるのは、空腹のためなのか?、それとも暇だから刺激が欲しいのか?(大体のものには刺激が欲しいだけのものも多く、その際は代替えのもので事足りるのである、チョコレートの代わりにガムでも良い)

そしてきっかけを理解する事によって、(その場所に行くとタバコが吸いたくなる、とかその人と合うと酒を飲むとかだ)きっかけになる事を控え、代わりに別の習慣をすり替える事ができる事を本は示唆している。

 

習慣の繰り返し

毎日は小さな習慣の繰り返しである。この事を言い換えると人生は習慣でできていることになる。この習慣の力は色々なエピソードと実験によって科学的に「習慣」を解明しようとしていて、その正体を見極めると、それは人間の生き方すら変わってしまうと感じるのだ。

つまるところ、自分の求めている自分自身を手に入れるには習慣してしまうという事が、その道を手に入れる最短の道という事だ。

 

この習慣の力は、成し遂げたいものがある人はぜひ一読してみると良い。なぜなら習慣とはあなたの人生そのものであるからだ。

 

 

その正体は?ハーメルンの笛吹き男ー伝説とその世界

 

みなさんも一度は聞いたことがあるハーメルンの笛吹き男の話。古ドイツの昔話であり、ある意味教訓めいた内容と、その不気味な結末に童話というより、ホラーのような展開にうすら怖くなった覚えはないだろうか?

 

古ドイツの伝承では「ブルーメンの音楽隊」があるが、それと対比すると、その不気味さが浮き出てくる。

 

1284年、ハーメルンの町にはネズミが大繁殖し、人々を悩ませていた。ある日、町に笛を持ち、色とりどりの布で作った衣装を着た男が現れ、報酬をくれるなら街を荒らしまわるネズミを退治してみせると持ちかけた。ハーメルンの人々は男に報酬を約束した。男がを吹くと、町じゅうのネズミが男のところに集まってきた。男はそのままヴェーザー川に歩いてゆき、ネズミを残らず溺死させた。しかしネズミ退治が済むと、ハーメルンの人々は笛吹き男との約束を破り、報酬を払わなかった。

笛吹き男はいったんハーメルンの街から姿を消したが、6月26日の朝(一説によれば昼間)に再び現れた。住民が教会にいる間に、笛吹き男が笛を鳴らしながら通りを歩いていくと、家から子供たちが出てきて男のあとをついていった。130人の少年少女たちは笛吹き男の後に続いて町の外に出てゆき、市外の山腹にあるほら穴の中に入っていった。そして穴は内側から岩でふさがれ、笛吹き男も子供たちも、二度と戻ってこなかった。物語によっては、足が不自由なため他の子供達よりも遅れた1人の子供、あるいは盲目聾唖の2人の子供だけが残されたと伝える。

wikipediaより

 

笛吹き男は誰だったのか?子どもたちはどこにいったの

か?

ちくま文庫の「ハーメルンの笛吹き男」は伝説を真面目に研究したものであり、デタラメな俗説を一蹴し、歴史的な証拠を元に解明を試みている。

こういった物語を分析するには、当時のドイツの状況を知らなければならず、本の大半はハーメルン市の歴史に多くを割いている。

 

笛吹き男は道化?

笛吹き男は伝説によると色々な生地をつけた派手な男だったと明記があるが、当時のドイツは道化などの身分の低いものは、色付きの服を着ることは禁じられたため、笛吹き男は貴族ではなかったか?

時代は殆どが未開拓地であったため、またハールメンも大変貧しく、市民として認められない選民がいくらでもいた。職業の自由もなく、日々生きていくことが大変であった時代だ。そして、どこかの貴族が「移民」を集って新しい土地に向かったのかも知れないち、仮説の一つを上げる。

この説は反論がかなり有るらしいが、笛吹き男という隠語で隠された人物が、子供を(自由意志で)連れて行ったなら(新しい土地では市民になれると)あとに付いて行く子供たちはいたのであろう。

 

市民の約束を反故した事による教訓?

単なる「ウソの抑制」のための作り話であるなら、よくできた話であるが、それなら他にある幾つかの教訓めいた話とどこが違うのだろう。

このハーメルンの笛吹き男の話はどこかファンタジーでありながら、現実的な迫力がある。これは必ず元になった話があるはずである。

 

伝説は今も生きている。

ハーメルン市では今も笛吹き男の伝説は生きていて毎年6月26日は祭日として祀っている。現代にも息づく伝説は、なんとこの本を読んでも分からないが、(仮説は幾つものっている)ドイツの風土やより詳しく、且つ学術的に調べたいなら、この本は大変参考になるのではないだろうか。

 

 

男はつらいよ「隻眼の少女」

 

男というのは辛いである。もちろん女性も辛いだろうが、男たるもの幼少期を過ぎるとどうしてあんなにもしょうもなくなってしまうのであろう。

思うに男性は中学生を境目に子供っぽさが抜けず、見た目がどんどん劣化して、愚痴っぽくなり、それでいて若い女が好き。

という文章に起こしただけでもしょうもない感じが出てしまうのはもはや運命なのであろうか。

 

もはや「かわいそう動物」の名を冠したような男性の諸君が「そんなー」と思わず声を出してしまいそうな物語が今回の「隻眼の少女」である。

 

麻耶雄嵩特有の「そりぁないぜ」感が今回も健在であり、なんども起こる「そんなー」に読んでる方は心配になるほどだ。

 

自殺する場所を求め寒村の温泉宿を訪れた大学生の種田静馬は、村の伝説の地で起こった少女の首切り事件に遭遇する。被害者は古から村を支配するスガル様の後継者で、九年後に起こると予言される大難事に備えるべく修行をしていた。犯人の罠により殺人犯と疑われた静馬を見事な推理で救った水干姿の十八歳の隻眼の少女の名は御陵みかげ。名探偵であった亡き母、御陵みかげの遺児で、母の名を継ぐべく、元刑事の父の手ほどきで各地で探偵としての修養を積んでいた最中だった。静馬は助手見習いとして、みかげと共に被害者の琴折屋敷へ向かうが、そこでは第二第三の殺人が待ち受けていた。三つ児の三姉妹、そして父を失いながらも難事件を解決したみかげ。だが、18年後に同じ現場で18年前を再現するような悪夢が……。絶品の超絶本格ミステリー。

あらすじより

 

現代と過去が行き交いするミステリーで、旧家、因縁、不可能犯罪とくるお約束な展開であり、主人公の「種田静馬」が鬱キャラで、名探偵の娘「ミカゲ」がツンデレキャラとくれば、「ほんわかミステリー」的なものかと思えば、

「そりゃひどいよー」

と言いたくなる事請け合い。主人公の種田静馬がなんか可愛そうと思えるないようなのである。種田はうじうじキャラなので、イライラする人もいるかも知れないが、そういうのは多感な男子ならなんとなく経験する事なので、その結果にはなんとも複雑な思いをする人もいるのではないだろうか。

 

 

どんでん返しが好きで、因習、旧家、巫女などのキーワードにビシッとくる人はぜひ読んで見てください。

 

最後はなんとか救われるので、途中で読むのを辞めないように!