ジャンクな脳と記憶

本を通じて人生の幸福を考えています。

人間はいつだって対等なんだ。最強のふたり。

あらすじ

 

パラグライダーの事故で不随となった大富豪のフィリップ。そして目下失業中のスラム街出身のドリス。

ひょんな事からフリップの世話係となることとなったドリスは、その歯に衣着せぬ態度でフィリップの心は懐柔されていき、やがて彼らは親友となっていく。

映画はフィクションだが、実際にあった物語を題材にしている。

 

 

 

 

今回は「最強のふたり」を紹介する。この映画は半分ドキュメンタリーであり、どりすもフィリップも実在する人物だ。(ドリスのモデルはアブデルという名前だが)

物語が実在にあった話という事で、とにかく派手な事は起きないが、障害者との付き合い方とは、そして魂の尊厳と人の優しさゆえの偽善に深く考えさせられる作品である。

 

 

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フィリップ:不随の大富豪。

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ドリス:フィリップの世話係

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マガリー:フィリップの秘書。ドリスが好意を抱いている。

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イヴォンヌ:フィリップの助手

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エリザ:フィリップの娘

 

 

 

実際、この映画ではフィリップは大富豪なので悲壮感はあまりない。ドリスの破天荒な性格も映画の中では需要なファクターであり、一見哀しいだけの話しに成りかねない話を、コメディにまで昇華する事に成功している。

障害者がテーマにあると、どうしても暗い話になりがちであり、健常者から見た世界はどうやっても偽善にしか映らず、勝手に自己規制したあげく、つまらないものになってしまう事が多い中、この作品は「障害者可哀想」的なアプローチがあまりなく好感がもてる。そして、避けることが出来ないのが「障害者の性」という問題であろう。

健常者と障害者の違いは無く、健常者の醜い部分はそのまま障害者も持ち合わせている。そんなの当たり前だと思うなかれ、意外と神聖化していないだろうか、障害者はそういった事とは無縁であると。

この最強のふたりは、ドリスが下品なシモネタを連発するので、その性の問題を彼はいとも簡単に解決してしまう。フィリップを下品なマッサージに連れて行き、彼の性感帯である耳を責めさせるという事をやってのける。

つまり、ドリスにとってフィリップの障害は大した問題ではなく、自分と同じ人間ということをちゃんと認識しているという事がすごいのだ。

障害者である人を見ると、何となく気の毒と思ってしまったり、同情をしたり、結局どこかで自分と区別して、なにか別の生き物のように扱ってしまったり、そもそも扱い方が分からず狼狽したりしてしまう。

それが、気を使う善人であればあるほど、考えすぎてしまうのだ。一人の人間を対等に思うことは思いの外難しい。

これは障害者だけではなく、職業や身なり、生まれなどで人々は区別し、それに値する対応をするように我々はできているからであろう。

自分の友人を並べると、年収がだいたい仲間の平均的であるという。つまり人間は境遇が同じでないと中々、分かり合える事が出来ないという事であろう。だから、貧民のドリスと富豪フィリップが親友になれた事が奇跡であり、ドラマティックなのであろう。

 

わたしの状態を忘れて電話を差し出す

同情していない証拠だ

 

本編にて、親友のアンソニーがドリスの事で警告を言う場面。

 

 

いつまでも待ち続ける、ドラえもん短歌。

 

 

 

昔、私が少年だった頃、藤子F不二雄先生の不屈の名作「ドラえもん」が大好きで、大好き過ぎて、学習机の一番大きな引き出しに乗っかった事があった。

私の重さに耐えれず、机の引き出しはそのまま壊れ、以後引き出しが使える事はなくなった。つまり私の学習机は一番許容量のある大きな引き出しに入れることが出来なくなり、その機能性を大きく損なったのである。

壊してしまった机を前に、ドラえもんはどうして僕の家には現れないのか考えていた。そして壊してしまった机を両親に怒られるかと思ったが、その頃私の家庭は崩壊しており、出て行ってしまった母親がその事を知るよしもないし、父親は机が壊れた事も気にかけないであろう。

実際は私は咎められる事は無く、ただ壊れた机の引き出しでは、きっとドラえもんはやって来ることが出来ないと思い、その事がひどく私を絶望的にさせた。

私は、大真面目にドラえもんに頼むつもりでいたのだ。

まだ、連載中のドラえもんには出てきていない道具だが、

「家族元通り機」なるものがある筈で、ドラえもんが我が家に来る事によってその道具を行使し、全て元通りになると思い込んでいたのだ。

 

だが、(当たり前だが)ドラえもんは現れず、すぐ私はのび太以上にダメになった。ドラえもんがいないのび太なんて、想像するだけで全くイケてない少年であったろう。

 

何かにつけて、ドラえもんのエピソードを絡めて考えると、その説得力に脱帽する。恐らく、私のような「ドラえもんの居ないのび太」達は頭の中に現れた、頼りがいのある友達を求め、「ドラえもん」を作り出す。

 

おかえりと 笑ってむかえて ドラえもん 別れてきたの あの人と今

自転車で 君を家まで 送ってた どこでもドアが 無くてよかった

営業を 終えた車中で スネオから 自分に戻るために 聴く歌

 

本著より

 

小学館からでているドラえもん短歌は、ドラえもんを読んだ事のある世界中の「ドラえもんが居ないのび太」が懐かしくも感動する短歌集である。

ドラえもんという少年漫画から生まれ出た、そのキャラクターは私達を無条件で迎えてくれる優しい故郷のようなものである。

そして、私はこの本を読むたび、タイムマシンに乗り、過去やまだ見ぬ未来を夢想する。

そして気づく、ドラえもんはもう私の元に来ていたのだと、そして自分自身がドラえもんのような大きな存在になる必要があると言うことを。

ドラえもんとは、無償で愛してくれる、とてもやさしい存在の事である。

 

自分が変われば世界が変わる。禅、シンプル生活のススメ。

 

 

三笠書房から出ている「禅、シンプルな生活のススメ」は、現代の息の詰まるこの世界から、少しでも緩和出来る方法を禅の考えを通して、考えて見るという内容だ。

 

著者である枡野俊明さんは、曹洞宗の住職であり、多摩美術大学のデザイン学科の教授でもあり、ニューズウィーク日本版にて「世界が尊敬する日本人100人」にも選出されている、庭園デザイナーでもあり、その著作も多い。

そんな禅の思想のプロフェッショナルが書く、日常生活に活かせる禅の考えをどのような方法で昇華していくのであろうか、まず前置きにて、

 

シンプルに考える癖をつけると、悩みがすっと消える。

シンプルな習慣を身に付ければ、生きるのはずっとラクになる。

生きにくい世の中だからこそ、「禅」が生きるヒントを与えてくれそうです。

 

 本書まえがきより

 

 

本書は禅の考えで日常を変えていくための本であり、本格的に禅を読み解く類のものではなく、各文節は短くまとめられており、実際自分にあっている部分を読むという事が出来るようになっています。

その中で、繰り返し書かれているのは「シンプル」に生きる事で、自分を取り巻く複雑な環境を緩和出来る事が書かれています。

 

些細な習慣が、雑多な人生に余裕をもたらす事になるようです。筆者は、脱いだ靴を整えたり、いらないものを捨てる事で、余計な執着や雑念をなくす事ができる事を説きます。

 

確かに、どんな啓発書でも、自分の身の回りを片付けたり、余計なものを捨てる事を推奨する事が多いと思います。

この書では、字を丁寧に書いたり、ゆっくりお茶を淹れたり、食事を疎かにしない事で忙殺された日常を見直す事を提案しています。

 

この本を読み進めて行くと、人として当たり前と思うことにふと出会う事があるが、「人のせいにしない」とか「人と比べない」「自分に無いものを求めない」などである。

我々の世界は、「人と比べる」事で何かの尺度を図ったり、手に入らない物を渇望して、余計苦しんだりしている事がよく分かるのである。

 

見栄を張ったり、やりたくないものを無理やりやっていたり、いたずらに不安に囚われ、誤った道に進んだり、本当は要らないものを買い込んだり、実はもっとシンプルに考えれば、そんな辛い選択をする必要はないという事に気づく、そしてそれがなされていない現実に戦慄する。そりゃ苦しいワケである。人間として真逆な事をしているのだから、辛いに決まっている。

「仏教」とはそもそもこの過酷な世の中を乗り切るための教えであったという。原始仏教にはそのコンセプトが色濃くでているし、その中の禅の教えは「内面」に目を向けた教えと言えるだろう。

超訳で言えば「世界を変えるには、自分自身を変える事で可能になる」という事なのではないだろうか?

 

この幾つかの生きるヒントを読みながら、古来から伝わる人間としての「善」が結局のところ自分自身を救う事になるのではないだろうか?

「心を伝え」「人に尽くし」「自分を大切にする」そして「人を喜ばせる」事によって人は「今を生きる」事ができるのでしょう。小手先だけのテクニックで人や自分を騙すのは、結局自分を貶めるだけなのでしょう。

 

今、自分のところにある物。それを大切に思う気持ちを持つことです。

その物が自分のところにあるという事は、きっと縁があってのこと。それを大切に扱い、自分にとっては最高の物という思いを持つことです。

 

本書 物との縁を大切にするより

 

物や金では、中々満たされる事はないということなのでしょう。

 

信念には真実が宿る。ジェーン・エア

あらすじ

 

幼少の頃、両親を失ったジェーンは祖母の元に預けられた。その祖母と折り合いが合わず、寄宿学校に入れられてしまう。

 

やがて大人になったジェーンは、ソーンフィールド家に家庭教師として雇われる事になる。

ソーンフィールド家の当主ロチェスターと心が通じあい、やがて求婚されるが、ロチェスターには重大な秘密が隠されていた。

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北海道は観光地。オホーツクに消ゆ。

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私事で恐縮だが去年北海道に旅行に行った。北海道の感想は「飯が旨い」の一言に限る。空港でも、店でも試食は多いし、海産物も納得の旨さである。

結局札幌近郊しか行かなかったが、始終お腹いっぱい状態でさらに酔っ払っている状態であった。

観光という観光は行かなかったが、ガイドブックに記載されている場所は広大な土地を車で移動しかなく、たかが2泊3日の旅行では札幌市内&近郊が限界であったのだ。

 

だが、そんな北海道の旨さに惹かれながらも、私の心の中は「オホーツクに消ゆ」でいっぱいであった。

「ニポポ人形は売っているだろうか」

「網走刑務所はどうだろうか?」

「北浜駅は死体があるのだろうか?」

「キャバレールブランはどこにあるのだろう?」

みたいな感慨が浮かんでは消えていった。

一緒に行った妻はまるで世代ではないので、こんな心はわかってくれる筈もなく、(以前横浜港の観覧車を見た時、暴走してポートピア連続殺人事件の話を熱烈にしたが、反応は冷ややかなものであった)

そのオホーツクに消ゆの舞台であった北海道を「また来るぜ」と思いながら、白い恋人を食べて飛行機で帰省したのだが、物語の舞台が本当に行けるところだと、それを巡る旅行とか結構たのしそうである。

JTBあたりが企画したらどうだろうか?「オホーツクに消ゆツアー」でドッキリで殺人が起きたりして、もりあがるとおもうけどなあ。

 

そんな訳で、ファミコンで1987年に発売された「オホーツクに消ゆ」はドラクエおじさん「堀井雄二」原作の名作アドベンチャーゲームである。

ノリはサスペンス劇場的な感じで、日本が舞台なので地味な印象だが、旅情サスペンスは元々人気だし、当時の作品としては出色の出来栄えであった。(ストーリー、インターフェイスともに)コマンドを総当りでクリアできてしまうが、理不尽さが無く、まさに名作という作品である。

 

ファミコンアドベンチャーはこの後、衰退していってやがてサウンドノベルとなり、そしてこのジャンル自体がもはや絶滅してしまったが、ファミコンのドット絵で描かれる北海道に当時の子供達は「いつか北海道にいくぞ」と心に誓うのであった。

 

どうして少年はファンタジーに憧れるのか?ホビット竜に奪われた王国。

以前のエントリーで、映画「ホビット」の事を書いたが、今回はその続編「ホビット竜に奪われた王国」について書く。

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本作はトールキンの名作「ホビット」の3部作の2作目にあたる作品だ。

ホビットのビルボがドワーフの王国の復興を描く作品だ。

原作は「指輪物語」より古いが、映画は新しいので、トールキンの描く世界は見事なCGとして再現されており、見るものを圧倒させられる。

 

特におっさんは、この「ホビット」「ドワーフ」「エルフ」など言う単語に弱く、過ぎし日の少年の日々を回想している者も多いのではないだろうか?

 

実はこのホビットを思って、改めてトールキンの「指輪物語」「ホビット」は大人向けの内容であるなと感じる。

と、いうのはこう言ったファンタジーが日本に上陸した20数年前は、このホビットやドワーフという亜人の設定はあまり受け入れられない感じであったからだ。

つまり、ヒロイックなファンタジー場合、カッコいいエルフやイケメンの人間以外のキャラクターは主人公には成り得なかったという事だ。

 

ズングリムックリで、小人であるホビットやどう見ても中年の醜さ全開のドワーフを、D&D(テーブルトークRPG、とても流行った)でやりたい人は少なく、誰もがエルフや人間をプレイしたがったのである。

それは少年ジャンプ的な要素で、ヒーローは強くカッコよくがモットーだからであろうか?実際このトールキンの「指輪物語」よりマイケル・ムアコックの「エルリック・サーガ」やドラゴンランス戦記のほうが子どもたちには人気があった。

 

だが、前回のエントリにも書いたが、物語としては「勇者コナン」みたいな強者が戦うより、「ホビット」のビルボのような非力な平和主義のホビットが頭脳を使って戦うほうが、非常に面白い。

 

この竜に奪われた王国は3部作の真ん中という事で、ビルボの活躍はやや控えめ、代わりにドワーフの仲間と王子トーリンの葛藤やその背景が語られる。

そして竜「スマウグ」との迫力な戦闘、港町に住む弓の名手のバルボとの確執、最終章のために役者が揃った感じが、とても面白いです。

 

この2作目まで、amazonのプライムビデオで見れるので(3作目は有料ですが)おもろいので是非会員の人は見てみてください。

 

穴を掘れ!埋めろ!ロードランナー

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今回は「ロードランナー」を書く。かなり古いソフトだが、元々はパソコンゲームであった本作は、1984年にファミコンに移植された。

パソコンゲームが元祖で、後にファミコンに移植されるというパターンは、結構あって、そこには結構ドラマがあったのようで、このロードランナーにもドラマがあったらしい。

 

原作者のガイジン「ダグラス・E・スミス」さんはこのロードランナーを作成した時は学生だったそうだし、このロードランナーがきっかけで、富を手に入れた人である。

最近なら「フェイスブック」のマーク・ザッカーバーグ氏みたいなものであろうか?(わたしはフェスブックはやっていないが、映画ソーシャルネットワークは映画館に視聴しにいった)

このような若者がゲームで金脈を当てるというのは、まさにドリームでこの作品「ロードランナー」には、そういった若者のアイデアみたいなものが詰まっている(ような気がする)

ゲーム自体は今は殆ど無い、アクションパズルでプレーヤーは穴をほって敵をかわして金を集めて脱出するとゲーム、と文字で起こすとまるで面白そうには思えないゲームだが、付属のエディット機能を使うとオリジナルステージが創れて、当時1年に一本くらいしかゲームが買えなかった少年達には重宝する機能であった。

 

この穴を掘って、敵を埋めるという、それだけのゲームにアメリカンドリームなるものが含まれていると思うと、なかなか感慨深いが、より高度なテクニックを要求される「チャンピオンシップ・ロードランナー」が後に発売されるが、こちらは急に難易度が上がって(通常のロードランナーが1だとすると、チャンピオンシップロードランナーは一気に10くらいの難易度だった)小学生を置いてきぼりにしてしまう仕様であったが、このゲームがいかに良く出来ていて、初級者から達人まであそべるゲームとしての本質があると言えるのではないだろうか?