ジャンクな脳と記憶

本を通じて人生の幸福を考えています。

書評「心がラクになる生き方」

 

 「生きる意味」なんて考えた事は一度はあるだろう。それが子供の戯言であっても、中にはふとした瞬間に「俺は何のための生きているのであろうか」なんて思う事があるでしょうか?

 

 ズバリ答えは「ありません」。

 生きている意味などないのです。それは本書を読めば分かりますが、そもそも我々の存在自体意味が無いのです。

 どうですか?何か意味が無いといけないような世の中です。町を歩けば「あなたに最高の意味を」とか「あなたは変われる、これを使えば」みたいな文面がならび、まるで、人生の意味があって、さらにそれが崇高なものでなければならないみたいな風潮、ますますそれらのギャップで胸が苦しくなる、そんな思いしたことは無いですか?

 

 大丈夫、全部意味が無いです。

 

 この本のエピソードにて、著者は幼少の頃、小児喘息を患っており病院に通っていたそうです。その病院は毎週母親が送ってくれていたのだが、ふと思ったそうです。

 「なぜ、母親は自分を病院に送ってくれるのだろうか?」

 「急に自分を病院には送らないと言い出したら、どうすればいいのだろう?」

 「そもそも、母親は何故自分の母親なのか?」

 「みんな役割を演じているだけではないのか?」

 

 母親は子供の面倒を見る。父親は働いて家族を養う。子供は親のいう事聞く、それによって両親によって自分は寵愛される。などは、社会の慣例であって、それを無意識で演じているだけではないだろうか?

 

 いやー普通そんな事子供は思ないだろーとツッコミが入りそうだが、著者は利発な少年であったため、そういう「自分の根拠」というのを疑うという行為に至ったのではないだろうか?

   

 そんな感じで「自分というもの、あるいは人と言うものの根拠」が揺らぎ著者の心の中には澱みのように広がっていき、やがて不安というものに変わっていく。

 

 そんな中、中学生の時、受験勉強をしていた著者は「源氏物語」の一節「諸行無常」というフレーズに出会う。

 「諸行無常」とは移り変わる世の中は、変化、消滅を繰り返すという意味だが、著者はこれを「すべてに意味は無い」と解釈します。

 

 そうです、ここで「人生に意味が無い」と再確認された瞬間です。

 釈迦の教えである「諸行無常」は古今東西そういう風に感じている人が居るという事の照明であり、また真実である。この事によって「人生は意味などない、だから肩ひじ張らなくても生きていける」と著者は思うのであった。

 

 ★ここから勝手に解釈★

 

 勿論、人生には人それぞれの「生きる意味」があると思いますので、その定義が「無かろうが、あろうが」得に関係ありません。だが、「生きている意味」なるものが逆に足かせとなったり、重荷になったりする場合はこう「意味などない」と思う事でラクになるのではないだろうか?

 我々の目に入るものは、どうしても極端なものが多い、「何々で大成功」「劇的な出会い」「ドラマテックな展開」など露出するものはそういったものが多い、まるでそのようなものでなければ、意味が無いような気すらする。

 自分の人生とは真逆なものを見れば、相対的に「自分の意味とは・・・」と考える事は自然であるが、中国の偉人老子の言葉を借りれば「足るを知る」となり、現状の自分に満足し、本当の意味というのは決して派手なものではないという事を理解しておくと良いと思う。

 

 意味を考えると、それは絶対的なものではなく、先ほどの「諸行無常」ではないが、世の中は移り変わりが激しいので、勿論人間の心も移り変わっていく、だから最初は「仕事」が意味であっても、そのうち「妻」になり、やがて「家族」と変えていってもぜんぜんOKであり、勿論「意味なし」でもなんの問題も無いのだ。

 ただ、「意味の定義」をしておくと、なにか選択するとき、それを取捨選択しやすくなるので、考えておくと良いだろう。

 例えば、私事なら昇進すると、家族との時間が減るな、と思ったら、私の場合「家族」が生きる意味なので、昇進をしないとか、(迷いは無い)このように選択するときに間違った方を選ばないので、考えておくと良いと思う。

 

 さて、「人生の意味は無い」けど「人生の意味はある」というお話でした。