天才とは馬鹿なのか?バカボンのパパと読む老子
よく、馬鹿になる事が大事という言葉を聞く。その意味は深く、ここで言う馬鹿は真の意味では無く、あくまで比喩的な意味合いであろう。
確かに偉人とは、常人と逸している場合が多く、一見奇異に映る事があるからだ。
だが、常人と違うからこそ、偉人なわけであり、そもそも常識という名に毒された我々の心には到底理解出来ない事なのかもしれない。
今回は「老子」について書く、「老子」と名前だけは聞いたことがある人も多いだろうが、原著を読んだ人は大学で専攻した人ぐらいではなかろうか?
「ああ、老子ね・・中国の昔の人でしょ?」
と答えた女子大生は間違いではないだろうが、ここで
「いいかい、老子というのはね、古代中国の哲学者であり道(タオ)という自然崇拝の観念を説いた偉人でね、老子というのは「偉大な人」という意味なんだよ」
なんて言っても、今年21歳女子大生萌菜ちゃんは、
「フーン、なんかムツカシイんですね~」
とうっとうしがれるだけであろう。おっさんはその手の話が得意だが、そんな昔の偉人の話しをした所で、若い子の尊敬を得れるわけではないのだ。
そもそもおっさんはすぐ幻想を抱いていしまいがちであり、よほどの経済力がないならそんな話に乗ってくる若い女性は居るわけがないのだ。
しかたないおっさんは、自分の妻に
「ねえ、老子って知ってる?」
と哀しい知識を披露するのであろう。
話が逸脱した。
この「老子」が現代でも語り続けているのには、理由があるわけで、それは残された名言が物語っている。
現代の小手先だけの生き様の指南が溢れている世界において、老子の考えは実にシンプルだ「自然の摂理に乗とって、自分を見つめ直すこと」(意訳)が必要という事を説いており、以外に今の社会にも合致する事が多いのである。
我々は便利を追い求め、物質社会に身を投じて来たが詰まるところ、そのようなもので満たされる事は僅かな事で、本質は人間としての自然の姿が一番高潔である事に気づきつつある。
勿論、ブッダやこの「老子」も元は王子であったり、老子と思われている「老」(ろうたん)は官史という偉い役人であったらしいし、一度は物質的な満たす思いをしないと、悟りのようなものは開けないので、(どちらも財を捨てて、それぞれ己の道を進んだ)あながち今の我々も間違ってはいないのかも知れない。
そんな「老子」は行き過ぎたロハスのような考えで、全ての存在には道があり、その道にそってあるがままに自然にあるのだが、人間は恣意的に欲望が先行して、その道を外れてしまう、それが不幸なのであると、そんな欲望は捨ててただ道(自然)に添って生きる事が正しいと説いたのだ。
どうだろう、最近の傾向では「幸せも色々形があるもの」と感じている人が多く、いわゆる人生の目的と言われて来た「家」「車」「結婚」とかでは無く、それらが無くても幸せである事を実践している人もいるし、「出世」や「大企業」とかも以前よりだいぶその効力を失っているように思える。
で、「老子」なのだが、原著は記述が難しく、現代訳でも読みにくいが、ドリアン助川さん著の「バカボンのパパと読む老子」はさらに超訳されていて読みやすい。
ここで気づくのは、バカボンのパパも「老子」的な考えの実践者である事、そして意外なほど「老子」を読み解くのにピッタリなキャラクタなのではないだろうか。
昔から馬鹿と天才は紙一重というが、ひょっとして馬鹿と天才は同義語なのかもしれない。