インターネットの功績と弊害(一側面)
今世紀最大の発明はやはりインターネットではないだろうか?知識の共有という意味合いでは、紙に記憶するという伝達方法が発見された以来の、大革命なのではないかとすら思える。
大げさの言い方かもしれないが、世の中のすべての事がほぼリアルタイムに記憶が出来る世界が誕生したとも言える。
渡辺浩弐の小説「ゲームキッズ」シリーズの中の一遍に、世の中の人間がすべてメガネに付けたカメラで全ての場面を記憶するという話がある。そしてそれに記憶されていないものは、もはや現実とは見なされないのだ。
日々進化する検索技術があれば、とりあえず全て記憶すれば後から検索することによってその事が再び取り出せるというのは、人間の脳の外付けストレージという事で単純に記憶するというものから、ひつような出来事のみ自分の脳にインストールする事が出来て更に知識を蓄える事ができるのであろう。
そして巨大なデーターをインターネットにてさらに共有ということになれば、その知識は膨大となる(当たり前だが)膨大すぎてとても管理しきれないかと思うが、これは前述の検索技術が上がれば解決する事であろう。
そんないいことだらけな気がするインターネットだが、出来なかったり、忘れることがいいことのほうがいい場合もあるので要注意だ。
例えば、誰もが調べられる時代が来るということは、いい加減な事を案内出来ないと言うことだ。ここで言ういい加減な事というのは、嘘などの事ではなく、簡単な問い合わせに対しても、その人の見解で応えると言うことが難しくなると言う意味だ。
とあるサポートセンターでは、自分がその事を知っているのに質問攻めにして、間違えると烈火のごとく暴言を吐く客がいるという。お気の毒な事にそう輩がいるので、普通の対応を望む人まで、回りくどい説明を受ける事となる。
隠されているというのは、知る当然の権利があるので知るべきかと思うが、円滑に対応をする際はユーザーに情報が開示されていないほうがいい場合もある。そもそも自分で調べられるのなら、そんなところに掛ける必要はない筈なので、勝手に調べればいいのだ。
話が逸脱した。
そしてもう一つ、人間には忘却の機能がついている。それは 人間があくまで人間として生まれ出たときのままの機能として存在していて、それはとつてもなく大事なものである。
いつまでも、直ぐ思い出せるようであれば、それはこのストレス社会でストレスを際限なく繰り返される事を意味する。忘れてしまえば、怒りや悲しみも薄れて行くが、その時の事が鮮明に思い出せたら、それは追体験が出来てしまう事となってしまうからだ。
よく思い出は胸の中にある。という比喩がつかわれるが、思い出なんてものはいい事も悪いことも胸の中にあるくらいがちょうどいいのではないだろうか?。