心を落ち着かせろ!反応しない練習とは
現役僧侶が書いた名著、雑音だらけの世の中の耳栓。
さて、何か気に入らない事があると気が立つのはまあ、普通であろう。
ところが、瑣末な事でイライラが募りオバちゃんのデリカシーのないジョークすら、聞き流せなくなっていたのなら、そりゃアンタ重症です。
特におっさんから老人と呼べる男性は、常に怒っているフシがある。怒りのあまり、世の中のルールを逸脱して、晴れてタイーホ〜されてしまう御仁もいるから注意が必要である。
先日も近所の薬局でジジイが、店の店員に不条理な事を浴びせかけられているのを目撃したが、あんなのを相手にしなければならない、店員さんがとても気の毒と思えてしまう。
思うに、特に男性は仕事をしている人(あるいはしていた)が多く、世の中にある色々なものに(勝手に)反応してしまうのだないだろうか。
みなさんも知っている通り、世の中とは矛盾や欺瞞で溢れている。決して理屈で割り切れる事もなければ、正しい事が正しいままの姿でいられるわけではない。
社会という荒波に、まともに戦うことは不可能であり、意味が無いのだ。少年ジャンプに連載されている漫画ならともかく、逃げるが勝ちという事も多いはずだ。
つまり、怒れるおっさんは世の中の巨悪にはまったくもって歯がたたないが故に、明らかに勝てるであろう相手に対しては、烈火の如く糾弾すると言う事であろう。
しかし、それを受け止める事は容易ではなく、奥さんや家族などはもはや相手にすらされて居ない場合が多いのであろう。それで、言い返しの出来ない店員などがミスを犯すのを手招いて待っているという事なのであろうか。
そんな荒れた世の中を地雷を避けるように生きるのはやはり無理がある。特に営業職や接客業は余程のドMしか、それを喜びに転化する事は不可能である。
怒られたら、ありがたく思いなさい。と、教育係はいうかも知れない。
そいつが、地蔵菩薩*1でもない限り、かなりの確率で嘘っぱちであるからだ。
不条理な言葉を浴びせられて、それでも有り難いなどど思うやつは、アタマのネジが外れた大馬鹿野郎ではないだろうか。
いかん、なんか感情的になってしまった。
けっして、私が実体験に基いて言っている訳ではない、決して・・。
そんな、反町隆史のポイズン*2な世の中には、この本のように反応しない練習をすべきだと思う。割りとマジに。
原始仏教を優しく解説したもの、と言うと、なんか硬そうなイメージだが、仏教のお得意の「無」とか「虚」をカジュアルに現代生活に応用できる実践書であるようだ。
著者の草薙龍瞬さんは現役の僧侶であり、東大法学部卒という中々の偉人、彼が日常に起きた出来事を例えとしてその「いちいち反応しない」ことの素晴らしさを説いていくという内容だ。
いや、これ中々いいよ。おっさんになって来ると分かっていても実践出来ない事が多いのだけれども、そのへんの理屈をちゃんと語っている。
坊主の説教臭さも無く(若干あるが)読み物としても面白いのではないであろうか。
蛇足であるが、数ある宗教の中で贔屓目に見ても仏教が一番マシなきがするのは、執着という概念が無いからのような気がする。最近の坊主はどうも生臭い輩が多いと思われるが、ブッダが生きていた頃の原始仏教はシンプルで素晴らしかったという事であろうか、なんでもそうだが人気がでて営利を求めだすと、途端にダメになってしまうものがある。宗教もそういった類なのだろう。