ジャンクな脳と記憶

本を通じて人生の幸福を考えています。

いつまでも待ち続ける、ドラえもん短歌。

 

 

 

昔、私が少年だった頃、藤子F不二雄先生の不屈の名作「ドラえもん」が大好きで、大好き過ぎて、学習机の一番大きな引き出しに乗っかった事があった。

私の重さに耐えれず、机の引き出しはそのまま壊れ、以後引き出しが使える事はなくなった。つまり私の学習机は一番許容量のある大きな引き出しに入れることが出来なくなり、その機能性を大きく損なったのである。

壊してしまった机を前に、ドラえもんはどうして僕の家には現れないのか考えていた。そして壊してしまった机を両親に怒られるかと思ったが、その頃私の家庭は崩壊しており、出て行ってしまった母親がその事を知るよしもないし、父親は机が壊れた事も気にかけないであろう。

実際は私は咎められる事は無く、ただ壊れた机の引き出しでは、きっとドラえもんはやって来ることが出来ないと思い、その事がひどく私を絶望的にさせた。

私は、大真面目にドラえもんに頼むつもりでいたのだ。

まだ、連載中のドラえもんには出てきていない道具だが、

「家族元通り機」なるものがある筈で、ドラえもんが我が家に来る事によってその道具を行使し、全て元通りになると思い込んでいたのだ。

 

だが、(当たり前だが)ドラえもんは現れず、すぐ私はのび太以上にダメになった。ドラえもんがいないのび太なんて、想像するだけで全くイケてない少年であったろう。

 

何かにつけて、ドラえもんのエピソードを絡めて考えると、その説得力に脱帽する。恐らく、私のような「ドラえもんの居ないのび太」達は頭の中に現れた、頼りがいのある友達を求め、「ドラえもん」を作り出す。

 

おかえりと 笑ってむかえて ドラえもん 別れてきたの あの人と今

自転車で 君を家まで 送ってた どこでもドアが 無くてよかった

営業を 終えた車中で スネオから 自分に戻るために 聴く歌

 

本著より

 

小学館からでているドラえもん短歌は、ドラえもんを読んだ事のある世界中の「ドラえもんが居ないのび太」が懐かしくも感動する短歌集である。

ドラえもんという少年漫画から生まれ出た、そのキャラクターは私達を無条件で迎えてくれる優しい故郷のようなものである。

そして、私はこの本を読むたび、タイムマシンに乗り、過去やまだ見ぬ未来を夢想する。

そして気づく、ドラえもんはもう私の元に来ていたのだと、そして自分自身がドラえもんのような大きな存在になる必要があると言うことを。

ドラえもんとは、無償で愛してくれる、とてもやさしい存在の事である。