ジャンクな脳と記憶

本を通じて人生の幸福を考えています。

合理的な考えと人間という名の無駄。

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ビジネスで合理化を望み、無駄な作業を軽減していく事は正しいとされる。確かに我々の生命時間は有限であるのだから、時間を節約して生産性を上げるのは理にかなっているように思える。

あなたがクリエイティブな仕事をしているならば、まさに時間は金であり、なにものにも替えられない一番大事なものかもしれない。

だが、時間給のように時間を切り売りしている人ならば、合理化の結果、新たなる仕事をさせられる事によって、報酬が下がってしまうという事になるのかも知れない。(さらに合理化をすすめる事ができたら、あなたは不要とされて解雇されるのがオチだ)

だから、もう出世をあきらめたおっさんとかは、変化とか合理化を忌避する。それこそ蛇蝎のように嫌われていたりする。

確かに合理化は正しい、そしてその元となる思想は、仕事を合理化して無駄をなくし、経済的、そして人員的にラクをするように考案された筈だ。

確かに、個人で完結する仕事であればそれが最大に活かされると思う。フリーランスよのうな人々は、時間を短縮しその分生産性をあげれば、それだけ余暇や報酬が上がるからだ。

 

ここまでが前置きだ。

 

私個人はそういう無駄が嫌いで、効率を考えるのが好きなわけだが、そもそも人間というのは無駄な事をやることによって人間らしくとも言える。

機械に代替されるようなものは、完璧な機械によって取り替えられていく、そしてそれが人間から仕事を奪っていく、と機械化文明に対して警鐘を鳴らす人たちがいる。

そしてそれを快く思わない人がいて、その人達がいる温かみがない、とか機械に人間の何がわかるのか、という反感はまるで的外れのように思える。

(そもそも人間同士が分かり合える事なんてないし、分かり合えた気がするだけだ)

 量販店の店員のようなものは、そもそも機械化されるべきだし、そのほうが複雑になりつつある商品に対して間違えも少ないであろう。そういった人道的でない仕事はやはり機械にまかせるべきではないだろうか?

だが、人間としての無駄がある意味、(日本のワビサビのように)価値を合理化することさえ難しいものに関してはそのまま無駄という形でとって置くべきであろうし、なによりも人間は無駄という事を理解し、無駄なものにエネルギーが割けるやさしい社会があればいいのではないだろうか?

例えるなら、労働時間を5時間ほどに短縮し、足りない部分は機械の合理化によって賄えば、おそらく殆どの人は幸福を感じるのではないだろうか?

人間の無駄を機械がカバーする未来なら、機械化、合理化を歓迎できるのではないでしょうか?