ジャンクな脳と記憶

本を通じて人生の幸福を考えています。

ゲームは正しいか?

 

 

まず前提として、私はゲーマーでした。だが、もう随分ゲームをしていない。当然PS4も持っていなければ、スプラトゥーンは知っているが、プレイしたこともないしこれからもしないだろう。

もう10年ほど前になってしまうが、コナミのウイニングイレブン(PS2の頃だ)にハマり自分で勝敗表まで作成し、友人と朝までプレイしていた。そのころが一番ゲームをしていたのでは無いだろうか?その後XBOX360を購入したが、プレイしたのは「レインボーシックスベガス」以外は買ってもほとんどプレイをしなかった。

それまでの私はゲーム機を何台か所有するゲームマニアだが、今は何もゲーム機を持っていないし、スマホはゲームをインストールしていない、パソコンはMacでやっぱりゲームは入れていない。(この原稿はsurfaceで書いているが)

つまり、引退状態なのである。こんな輩が何を語る事が出来るだろう。例えるなら、ヘビースモーカーが禁煙に成功した途端、タバコの有害さを訴え始め、挙句に現状喫煙者に対して、批判的な態度をとる(あんなもの吸っているのは馬鹿だと言うような批判)みたいなもので、実際のゲーマーから見たら鬱陶しいだけであろう。

 

それでも、あえて語りたいと思う。

 

私がゲームに費やした時間はもはや天文学的数字かと思うが、それはおそらく結果だけで言えば無駄だったと言えよう。それは、なんでもそうだが嗜好的なものは総じて無駄であるという事に集約するのだが、特にゲームは生産性が少ないと言えよう。

 

だが、役に立つというゲームほど面白く無い。勉強ができるように成るとか、英語ができるようになる、とかのゲームの下らなさ、逆に悪趣味とも言える「一般人をブチ殺す」(GTAの事だ)ようなゲームは世界中でヒットしている。

そんなPTAのお母様達が目くじら立てそうなものこそ、ゲームとしてはとても愉快でよく出来ているものが多い。それは偶然ではなく、そのような体験を擬似的にしたいと誰もが心のどこかで思っているからだと思う。

 

あと、ゲームをすることでどうしょうもない友人達と時間を共有出来た事が、この生産性の低い遊びの中で得られたものなのではないだろうか?その友人たちはやっぱり何の役にも立たないが、友人としては優れていたと思う。友人もやっぱり役に立つ人というのは、友人になりえず、ただの便利な人止まりなのである。

 

結論を述べる。

 

趣味というのは決して役にたたない。変に役に立つために行ってるというのは趣味では無く、それはただの強迫観念である場合が多い。

だから、あなたが趣味とよんでいるものは決して役に立たない。だが、その数値化されない時間は、きっとあなたを構成する大事なものに転化されているのではないだろうか?

気を病むことは無いのだ、人生は楽しんだものが結局勝者なのだ。