ジャンクな脳と記憶

本を通じて人生の幸福を考えています。

誰もが憧れる1流とは「一流の人に学ぶ自分の磨き方」

 

皆さんは自分を何流と思いますか?中々自分が1流と言うことは(思っていても)ないでしょうが、いつでも自分の自尊心は1流でありたいと願うものです。

だが、そもそも人の見えないランクというのは定義が曖昧であるため、ましては一流かどうかは第三者が決めるものなので、どうやったら一流を名乗れるのか不明と思うかもしれないけど、そもそも一流、二流は心の持ち方であり、

考え方が一流であれば、もうその人は一流なのである。

 

一流、二流とは?

この本「一流の人に学ぶ自分の磨き方」は便宜上そういった書き方をしているだけで、(比較したほうが分かりやすい)著者が差別しているわけではない。

一冊を通じて、一流の人は・・・。それに対して二流の人はという書き方をしてあり、比較的分かりやすい。

一般的には二流の人のほうが多いだろうが、一流の人も最初は二流であったわけで、決して悲観する事はない。また、金を儲ける事が一流ではなく、あくまで報酬は二次的な副産物である事を説いている。

 構成は、エピソード方式でそれぞれ

  • 信念
  • 勇気
  • 努力
  • 情熱
  • 成長
  • 規律
  • 学習
  • 謙虚
  • 忍耐
  • 寛容

に分かれている。それぞれの章は7−8エピソードあり、偉人の言葉も収録されている。エピソードの最後には著者からの提案もあり、実践する人には分かりやすい構成となっており、自分は「一流になる」と強く思っている人は一つの指南となるのではないだろうか。

 

何故一流なのか

目の前の事に忙殺されると、人は心が荒んでいく、あたかも澄んでいた湖が汚染された水によって澱んでいくように。人生は残酷でもあるので、心を閉じている人も居るだろう。何かにつけて損得しか考えなくなるときもあるだろう。

だが、汚染された心もあなたの心がけで澄みきる事も可能だ。つまり考え方次第で一流にも二流にもなり得るという事だ。この事は古今東西言われて来たことであり、いまさら感があるが、いつだって真実は単純なものだ。

 

この本に記載されている事項の一つに「刷り込みは修正出来る」というのがある。誰しも育てられた環境によって、何らかの刷り込みを受けているが、それは本人が気づいた時に修正できるというものだ。

わたしの友人に「オレがこんな内向的な人間になったのは、親の育て方がいけないからだ」という事を言っていたが、それはある意味正しいが、選択が可能である大人になってからは、逆に正しくないといえる。

幼少の体験は、今現在に幾らかの影響を与えたが、それは絶対ではなくいくらでも修正が効くという事なのだ。

したがって、一流の考え方なら「その時の親や教師はその時のベストを尽くしてくれた。だが、今の自分の立場は自分で選択したに過ぎない」

と言うべきなのだ。

 

選択が出来る人が一流という事

我々はあらゆる所で選択をしなくてはならない。それは一見不条理に見える事もあるが、自分で選択したもの以外で、精一杯生きることなど不可能だからだ。

だから、このような本を読み、選択しながら、その事の副産物として「自信」を付けて、人に貢献していくことがまさに一流になることと言えそうである。

 

 

カシオデジタルカメラ撤退に感じる、引き際の難しさ

 

どうやらカシオがコンパクトデジカメの市場から撤退するらしい、この記事を読んでなんとも言えない気持ちになった御仁は結構いると思う。

 

なんでもカシオがコンパクトデジカメを市場に売り出したのは23年前という事で、10年一昔と言われるこの世で、23年前は電化製品としては大昔に値する。(進化が激しいデジタル製品なら、もう紀元前の話だ)

この最初のデジタルカメラのQV10は実は私は所有していた。当時パソコンショップに努めていた友人が持っていて、その斬新さに驚愕し、すぐさま購入したのだった。

 

当時のショボい液晶画面に映し出された現実を切り取った画像は、初めてという経験も加味しても未来を感じさせた。それまで、カメラは高価な上にシャッターを押すたびにお金が掛かるというトンデモナイもので、しかも現像するまでその写真がどのような物なのか分からない。

当然、取った後盛り上がっているときに見たいのだが、後日現像した際はもうどうでも良いなんてことが多かったアナログカメラだが、デジカメは見事にそれを解消していて画期的であった。

 

それからはデジカメブームが起こり、やがて過渡期を超え、専用機は汎用機に取って代わられていく。

スマホの登場にて、デジタルカメラの存在意義が薄れて来たのだ。一眼のようなカメラはよりニッチな方向なので、そもそも競合にならないのは、関係していたのはそれ以外のいわゆる普通の層だ。

デジタルカメラは写真を取り、パソコンに移したりして物理的なものに変換したが(印刷の事だ)、今は印刷などせず、SNSにアップが主なので、いちいちパソコンに移してアップロードというのが、手間であるし、そもそもスマホであれば、そのまま写してアップロードできるものが、利便性でアナログカメラを駆逐したデジタルカメラが、さらに利便性を追求したものに、取って変わられるというのは自然の摂理なのだろう。

 

これはカメラというものが、従来の形で無いことでも良いことという事になり、我々が普段そういう物と思っているもの(例えば車とか、移動する媒体ということなら、動く椅子でもいい)がジワジワと入れ替わっていく事を示唆しているのではないだろうか?

 

カシオのデジタルカメラ部門は全盛期の90%減という事で、もはや存続させる事に議論の余地も無いくらいに落ち込んでしまったが、決断するのが遅いくらいかも知れない。

だが、定番になったものを切り離すのは、ファンや開発に関わったものは寂しさを感じるかも知れないが、現状を見極め、未来を見極めるのは、どんなに優れた人、企業でも難しいという事を今回の記事から感じたのでした。

 

 

 

そもそも全能の神は全能が故に存在しない。さよなら神様

 

以前紹介した。麻耶雄嵩の「神様ゲーム」の続編で、鈴木太郎こと「神様」が犯人を提示して、それを逆説的に思考していくスタイルであり、前回が一つのストーリーを追うに対して、今回は5篇のオムニバス方式を取っている。

今回も強烈な摩耶節は健在で、最後に救いのない答えが待っていると言う事は言うまでもない。

 

神様がもし身近にいたら、という思考は幾つかの矛盾を孕んでいるが、幾つかの理屈を「神様」は提示しているが、どれも屁理屈と捉えられてもおかしくない答えを用意しているが、(彼は退屈だからと、宣う)彼が神様なら、そもそもそんな説明も要らない筈だし、(勿論退屈だから、人間のレベルに合わせて物事を説明している、とも言えるが)退屈なら不自由な小学生を選択するはずがないのだから。まあ、そう言ってしまえば、物語自体が成り立たないので仕方ないのだが。

 

   

 

所々に出てくる「虚無」と「真実」神が当然人間のために存在している訳ではないので、「神様」鈴木の言葉は決して優しくはない。むしろ意地悪な答えに終始しているが、それは人間社会(この世がと言ってもいい)が不毛で虚無だからだろう。

この作品は総じて「人間の愚かさ」を書いているが、神様の言葉を借りるなら、「退屈しのぎに良いのかも知れない」

 

物語は以下の5編で構成されている。

 

  • 少年探偵団と神様
  • アリバイ崩し
  • ダムからの遠い道
  • バレンタイン昔語り
  • 比土との対決
  • さよなら神様

とにかく主人公の周りの人間が死にまくり、小学生とは思えない語りぶりが物語を奇異にしています。特徴的は前述で述べた、最初に犯人は・・・だ。

最初に犯人が提示している構成は「刑事コロンボ」のようであるが、本作のほうがよりプロットは複雑だ。

摩耶氏独特の倫理観にて、もやもやして終わるのも今回も健在だが、前作を含めて麻耶雄嵩を読むなら、この2作を推薦したい。

最後の章「さよなら神様」の最後のページの❤がこの作品の真実の軽薄さをあらわしていて、ある意味すごいと思う。

 

 

 

因習は恐ろしくも切ない。鬼の蔵

 

田舎にある因習と聞けば、あなたは何を想像する?落ち武者や幽霊、妖怪に悲劇、ともかく怪しくも美しい話が多い。

 

今回は、内藤了氏の「鬼の蔵」をレビューする。わりと純粋なホラーであり、実はその正体は科学的に・・的なものではなく、怪異は怪異のまま、本当に存在するのが本作の特徴だ。

つまりミステリーのような導入部もありながら、あくまで展開はホラーというわけだ。

 

盆に隠れ鬼をしてはいけない――。それが山深い寒村に佇む旧家・蒼具家の掟。広告代理店勤務の高沢春菜は移築工事の下見ため訪れた屋敷の蔵で、人間の血液で「鬼」という文字が大書された土戸を発見する。調査の過程で明らかになるのは、一族で頻発する不審死。春菜を襲いはじめた災厄を祓うため、春奈は「因縁切り」を専門とする曳家・仙龍に「鬼の蔵」の調査を依頼する。

あらすじより

 

コメディタッチの導入日から、山間部にある寒村に道の駅を造る事となったのだが、そこには呪われた蔵があって・・・。

主人公は女性で「高沢春菜」。もうひとりの重要人物は曳き屋師の「仙龍」、曳き屋師とは因縁がある建物を「曳いて」移動させる専門の鳶職の称号であり、今回の蔵には「鬼」が棲んでいるという。

その鬼に纏わる話は、2百年にも前に起こった事が原因であり、蒼具家の屋敷神「オクラサマ」と「鬼」との関係とは?

 

   

 

てな感じで、お約束の展開が待っているのだが、以外に読みやすく、因習ネタでありがちな、ウンチクもそれ程でもなく、主人公と仙龍とのラブコメ的なほっこりする部分もあり、怖いけど後味が悪い系ではないので安心して読めるのではないでしょうか?

 

この作品2作目に「首洗い滝」3作目に「憑き御寮」と続きますが、まず一作目を読むと登場人物が同じなので、入りやすいと思われます。

 

 

シューティングの一番星 グラディウスⅡ

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タイトル

1988年にゲーセンで可動していたシューティングゲーム(今はFPSを指すが、当時は2D画面で主に縦スクロールが横スクロールで自機を操作して、敵を球で粉砕するものの事を指していた)グラディウスⅡを語る。

 

もう相当前の作品だが、このゲーム「グラディウス」の冠を被っているだけあって、相当気合が入っていたのか、(個人的だが)非常に完成度が高い作品となっていて、今でも十分にプレイに耐えるのではないだろうか?

アーケードゲームが未だ、家庭用ゲームよりイニシアチブを持っていた頃なので、その当時としては相当詳細なグラフィック、サウンドを呈しており、中でもサウンドは一曲一曲は短くてもFM音源+PCMで十分スペース・オペラのような雰囲気を醸し出していた。

 

今の子供達が見たら、ドットの多重スクロールなどなんでもないものだろうが、当時としては、多重スクロール、大きなボスキャラ、全8面構成のステージ、どれも垂涎のゲームであった。

 

シューティングゲームはこの「グラディウス」シリーズを始め、各社から出ていたが、やがて格闘ゲームにおされ、ゲームセンターが下火になると、まるで老衰するようにひっそりと消えていくが、当時は上手い人のプレイを見る、というだけのものでさえ、一つの文化であったような気がする。

グラディウスⅡは全8ステージであり

Ⅰ面は小さな太陽が幾つも現れる人口太陽ステージである。

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このドラゴン?は破壊できる球を扇状に進行方向に吐いてくる。弱いが何匹も出てくるので、装備が弱いうちは中々手強い。

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ステージ終わりには必ずボスがおり、それを倒すとステージクリア、1面のボスはフェニックスで、頭が弱点。

 

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2面はエイリアンステージとなっていて、映画「エイリアン」ほ彷彿させる画面構成。有機的なデザインが目を引く、触手も出てきます。

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2面のボス「ビックアイ」、触手から弾を撃ってきます。わかりやすい弱点「目玉」。自分の名前で弱点を言っています。余談ですが、シューティングのボスは、だいたい、目玉や脳みそが多いです。

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3面は結晶ステージ、ドットで描かれたクリスタルが美しいです。後半激しい結晶の動きがあり、挟まれないように注意!

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ボス「クリスタルコア」細く短いレーザーを2本平行に撃ってきます。触手が邪魔で中々コアに弾が当たりません。

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4面は火山ステージ。音楽(A Way Out of The Difficulty)がかっこいいです

途中火山が噴火したり、雑魚キャラが弾を吐きまくります。

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ボスはデスmrk2、沙羅曼蛇に出てきたデスの2号機、ハッチからレーザーを撃って来ます。

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ステージ5はモアイステージ、グラディウス1でも、モアイステージはありましたが、より凶悪にモアイは向きを変えてイオン砲(モアイが打つ弾の事)を撃ってきます。ここのステージの曲は沙羅曼蛇の2面と一緒ですが、何故なんでしょうか?

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ボスはビックモアイ、口から小さいモアイを吐きながら、そのミニモアイも小さいイオンを撃ってくる。装備が良いとなんてことないが、貧弱装備だとかなり大変。

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高速ステージ。

この面だけスクロールが早いです。行き止まりもあり、ある程度パターンを覚える必要があり、シューティングゲーム=パターンを覚えるという構図が、この後の作品からは顕著になります。

ここまで、来れるようになったのに、迷路にぶつかって死ぬのはかなり切なかった。

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ボスはビックコアmrk2。もはやビックコアの面影はありません。弾幕系シューティングのようなレーザーを放って来ます。最初は驚きますが、装備が整っていればさほど強敵では無いです。

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ステージ7はボスラッシュ。もう勘弁して、というくらいボスが続きます。先鋒は懐かしのビックコア。

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沙羅曼蛇に出てきた「ゴーレム」も出てきます。

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同じく沙羅曼蛇に出てきた「テトラン」触手の動きが高速でかっこいいです。ちなみに巡洋艦だそうです。

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5番目は「ガウ」です。えらい有機体で、グラディウスの世界観と少し違うデザインですが、何事も例外はありますから良しとしましょう。

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沙羅曼蛇に出てくる「イントルーダー」ですぐトグロを巻きます。こうやって見ると「沙羅曼蛇」からの引用が多いですね。

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最後は「カバードコア」破壊不能なミサイルを円を描くように放って来ます。落ち着いて見れば大丈夫ですが、最初は弾の多さにビビってしまいます。

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いよいよラストステージのゴーファー艦内です。最後は敵の要塞というのはお約束です。複雑な地形を乗り越えて、艦内深部に向かいます、

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途中には要塞があります、中央のコアを守る壁が中々硬いです。

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そして、グラディウスⅡと言えば、この「クラブ」その異様な姿に話題が騒然となります。倒せないので、うまく足の間を抜けますが、なんかフェイントとかして、中々お茶目な奴です。

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クラブをやり過ごすと「ゴーファー」の間に着きます。ゴーファーは見た通り、頭と首に根っこが生えているおっさんで、何も出来ません。どうもグラディウスのラスボスは自分では何もしてこない奴ばかりで、簡単に破壊出来ます。ゴーファーを倒すと感動のエンディングです。

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ゴーファー艦から脱出します。なんか以外に小さい宇宙船に見えますが、きっと気の所為でしょう。マクロスにでも出てきそうなデザインです。

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スタッフロールが流れて、2周目に突入します。惑星グラディウスを背景にビックバイパーが帰還する様子を尻目にスタッフの名前が画面に出ます。

 

と、言うわけで、長々とグラディウスⅡを語って見ましたが、この作品は横シューティングのフォーマットを頑固としたもの、と言えそうです。横スクロールの定義をしたのは前作「グラディウス1」でしょうが、セレクト出来る装備の自由さや、ステージ構成など、この作品が影響を与えたものは多かったのでは無いでしょうか?

PS4のゲームアーカイブスで今でもプレイ出来るので、機会があればプレイして見てくだだい。

 

曲もすごく良いです。

 

まだホラーの季節じゃないけれど どこの家にも怖いものはいる

 

刀城言耶シリーズで有名な「三津田信三」のホラー小説である本作は、妙に現実味がある描写で人気シリーズだ。

三津田本人が収集している怖い話を、編集者と共に読み進めていくと、まったく違う話が一つに繋がっていって・・・。

一つに繋がったとき「ああ、流石だな」という感想が生まれるのではないだろうか?

また、話一つ一つが不気味で怖い、時間軸がズレているだけで、こうも違う風になるのか、と感心するばかり。

 

物語は

  1. 異次元屋敷 少年の語り
  2. 幽霊物件 学生の体験
  3. 光子の家を訪れて 三女の原稿
  4. 老人の記憶 或る狂女のこと

どれも読み応えがあり、ゾクッとする内容ばかりだ。

個人的な見解を言うと、この著者はこれくらいの短編風のものの方が読みやすくていいと思う。刀城言耶シリーズはウンチクや設定が凝りに凝っているが、その分本当に好きな人以外は、中々受け入れられないように思う(首なし以外)

因習、家、忌み、これらのキーワードに刺さる方は是非読んでみてください。

 

 

 

人生とはこんなにもかっこ悪いんだ。死にたい夜に限って

 

「君の笑った顔、虫の裏側に似ているよね」

クラスメイトにそう言われた筆者。運命はいくばかアングラな方向に向かっていく・・。

 

今回は爪切男氏の「死にたい夜に限って」

この本は「日刊SPA!」に連載されていた「タクシーハンター」の恋愛エピソードを中心を抜粋し、加筆したのが「死にたい夜に限って」なのだ。

 

この作品、すごい人生が当たり前のように降り掛かって来る事を実感出来る作品だ。

 

作品自体は

  • 筆者の少年時代の暗黒な交際の物語
  • 筆者の青年の頃の交際の暗黒時代
  • 筆者とアスカと呼ぼれる、一番の思い出の女性の物語

構成となぅている。

中でもアスカとの同棲生活にかなりの紙面を省いているが、それは筆者が思い入れが大きいからだろう。

 

この物語は実に色々な女性が登場する。

先程の同棲相手のアスカは登場時、唾を変態に飲ませる仕事をしていたし、他にも冒頭のセリフを吐いた同級生のマドンナ、青年期の車椅子の豊満な女性、宗教狂いの女性も登場する。

この本を見ると、不思議に逸脱した女性でも、案外素敵だなと思うのが不思議なところである。

 

結末は、現実はそういうものだという寂しさが残る展開だが、かつて同棲とかしていた人なら、中々刺さる話ではないだろうか?

 

一貫して言えるのは、全ての女性は何かしらの美しさがあるという事であろうか?

2次元もいいが、目の前の女性に少し話しかけてみては?