ジャンクな脳と記憶

本を通じて人生の幸福を考えています。

サラリーマンの終焉?堀江貴文「99%の会社はいらない」

 

今回のお題はホリエモンこと堀江貴文氏の新書「99%の会社はいらない」です。もうタイトルだけで、どういった内容かが窺い知れるようなタイトルだが、このタイトルだけでこの本が読みたくなってしまったあなたは、もう社畜失格ですね。はい、そうです。私もその一人ですから、よーく気持ちが分かりますよ。

 

さて、本書だが先日同氏の著作「本音で生きる」を紹介したが、本としてのクオリティはその本のほうが高かったように思える。「本音で生きる」の方は、堀江氏の生き方としての根幹があり、尚且つ納得できる内容に思えたからだ。

 

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で、今回の「99%の会社はいらない」だが、こちらの方はより会社や民主主義、もっと言えば雇用システムに絞り込んだ内容だが、少しページ数が少ないかも知れない、少し本を読む人なら、すぐ読めてしまう分量である。(総ページ数は207ページ)実際、私も1時間半ほどで読破できたので、早い人は1時間程度で読み終わるであろう。

 

今まで通りの口調で、自分のエピソードを交えながら、他人の為に時間を使うのではなく、自分の為に使う事が人生での最も充実した生き方だ。という事が謳われている。

そして「会社」というものがいかに旧世代のものであるか、そして非合理であるかを具体例とともに示している。

堀江氏がIT系の人間という事を差し置いても、これからはAIや機械の時代である事はこの本を読まなくても薄々感じている人が多いと思うが、それによる雇用の低下(いわゆる機械に仕事を奪われる)を嘆く人の不毛さ、(それは産業革命以降自然の摂理として行われて来た事であり、必然なのだ)不可解さを込めて氏はこう述べる。

 

仕事がなくなるとお金が稼げなくなるので生活に不安を感じている人もいるだろうが、そうなったら、もっと好きなことをして仕事をすればいいのではないだろうか?

 

つまり、AIや機械が自分の仕事をやってくれるなら、その余った時間を使って、本当の好きなことをすればいいというのが、ここでの根幹なのだ。

 

そんな、好きなことで生計なんて立てられないよ。

と思った御仁はもっともである。そこで堀江氏はバカになることを推奨している。

そして成功している社長などは「バカ」が殆どと言い切る。

 

起業してうまくいっている人も、バカと天才しかいない。こういってはなんだが、うまくいっている人の半分以上がバカだ。後先を考えられないから、リスクも考えられない。

 

つまり、いろいろと考えすぎるといつまでたっても行動出来ないという事だ。いっそバカになって行動してみようという事だ。

 

株式会社では、我々従業員はたんなる経費だ、会社という法人という名の人格は「経費」を削る事が使命であり、それによって投資家に配当を与える機械のようなものだ。我々が人の人生をなんだと思っているんだと声高く喧伝したところで、「経費」は「経費」なのだから、我々も備品のスリッパも同系列なものに違いない。

だったらいっそ会社という枠組みを外れ、好きに生きてみるのも良いのかもしれない。

 

迷宮には何かが潜んでいる。隣り合わせの灰と青春。

祝福と書いて「カルキ」と読む。

そして祝詞として、「皆にカルキを」と唱える。

これは1981年にアップルで発売された伝説のRPG「ウィザードリィ」のノベライズである「隣合わせの灰と青春」の一節にあるセリフである。

原作はもう30年近く前のものだが、今読んでも中々スリリングな内容である。

当時ファミコン版が発売された「ウィザードリィ」はそのファミコンにありがちな「ニコニコ」的な優しさが一欠片も無いゲーム内容に、大人のゲームの片鱗を見る事になった。

鬱蒼とした迷宮。

大人びたグラフック。

容赦無いゲームバランス。

そして恐ろしいまでのストーリーの無さは逆に想像力を掻き立てられ、その創造物の産物がこの「隣合わせの灰と青春」というわけなのだ。

当時、ファミコン必勝本という攻略系の雑誌に連載されていた本作は、その連載の中でも異色を放っていたと思うが、いわゆる「ドラクエ」や「FF」とは違った世界観やリアル路線に「やっぱ、ウィザードリィだよなあ」と言わしめる凄さがあった。

連載では、ワードナーの玄室までしか描かれていなかったのが、単行本にて完結すると言うことで、となり町の本屋まで自転車で探しまわったのだが、売っているのが見つからず、仕方なく近所の本屋で予約して漸く手に入れた思い出がある。

作者であるベニー氏は、幾つかゲームのノベライズをしているが、この「隣合わせの灰と青春」と続編である「風よ龍にとどいているか」の二作は群を抜いて完成度が高く、「風よ龍に届いているか」はキンドルで刊行予定なので、発刊されたら是非買いたいと思っている次第である。

 

 

大魔術師ワードナーは狂王トレボーから「魔除け」を盗み出し、巨大な地下迷宮を建造し、その玄室に身を隠してしまった。トレボーは冒険者を集い、ワードナーから魔除けを取り戻す者たちを広く公募する事にした。地下迷宮には恐ろしい怪物どもが巣食っており、冒険者達は日々訓練を重ね、ワードナーを斃すために迷宮に乗り込んでいくのであった。

 

登場人物

 

スカルダ:善の侍、本編の主人公。

サラ:中立の魔法使い、ヒロイン。

ガディ:中立の戦士、スカルダの仲間。

ジャバ:中立の忍者、スカルダの仲間。

ベリアル:善の僧侶、スカルダの仲間。

シルバー:善の魔法使い、彼が死んだ所から物語は始まる。

バルカン:悪の魔法使い、死んだシルバーの代わりにスカルダのパーティに加入する。

 

ゴグレグ:悪のドワーフの戦士、ガディをライバル視している。

アルハイム:悪の僧侶、ベリアルとは兄弟子関係。

ハ・キム:悪のホビットの忍者、「ひひ」と特徴的な口癖を使う。

サンドラ:悪のノームの魔法使い、ルードラの双子の兄。

ルードラ:悪のノームの魔法使い、サンドラの双子の妹。

ラシャ:中立の盗賊、ジャバの幼なじみ。

 

物語はほぼ迷宮での戦いではあるが、ウィザードリィをプレイした事があるのなら、そのプレイ中の不可思議な事が説明されていて興味深いし、そこが面白いところである。

また、呪文などが日本語で表現されているのも中々いい味を出している。(爆炎がティルトウェイトなど)

しかし、著者のベニー氏は中々の筆力なのだが、いかんせん著作が途中で終わっているものばかりなので、描き下ろしの新作を新書として是非出してほしいものである。

この「隣合わせの灰と青春」で一番のお気に入りキャラはアルハイムであるが、それは読んでみれば納得できるのではないだろうか。

 

皆に祝福(カルキ)を!

 

 

荒野は永遠に。マッドマックス怒りのデスロード。

 

荒野を走る一台の車、激しく改造されたその機体には幾つもの銃槍が開いていて、その車が幾つもの修羅場をくぐり抜けて来たことを示している。

この車を操るのは、元警察官である「マックス」その人である。

 

てなわけで、今回は「MADMAX-怒りのデスロード」について寄稿することにする。

この映画は、男が荒野を疾走しているー以上。

・・・・。

・・・・。

いや、本当にそれだけなんだよな、おっさん世代なら、昔見たマッドマックスがおもしろかったので、それのイメージがあるけど、内容は北斗の拳の世界で、拳法抜きバージョンと言うべき感じのストーリーで、世界が滅んだ後の暴力の世界での出来事を描いたものだが、ストーリーはあってないようなもんだ。

 

元警官のマックスは過去に救えなかった命の幻影に悩まされつつも、荒野にて生き延びていた。そんな中、暴徒に襲われ囚われの身になってしまう。

囚われたのは「イモータンジョー」と呼ばれれる男が統率するコミュニティであった。ここでは自給自足にて「水」「食料」が豊富にある独裁社会であった。

そこに囚われたマックスは、戦闘員ウォーボーイズの輸血分として、「輸血袋」と呼ばれ車に括りつけられて、血液補充のための傀儡と化してしまう。

そんな中、大隊長フェリオサが「緑の大地」を求め、ジョーの妻を連れて脱走を図る。そのドサクサに紛れて、マックスは脱出を図るのだが・・・。

 

てな感じで、フェリオサと組んだマックスはジョーの追ってを蹴散らしながら、やはり荒野を進んで行くのだが、

 

いや、マジでセンスとか描写がいまいち好きになれないんだよね。

奇形した者や、ヘビィメタルな兵士、ゴテゴテに飾られた車。

このどれかにヒットした人は楽しめるかも。

ウォーボーイズとジョーの妻とのロマンスとか、マックスの過去がちょくちょくフラッシュバックで出てくるわりには、それについての言及がないし、ジョーのバックグラウンドや世界の荒廃の理由もなし、

まあ、これ映画館で4DXか何かで視聴したらそれなりに楽しめるかも。

あたま空っぽにして、深読みせず、予定調和を楽しむというのが、この映画を楽しむ極意なのであろう。

なお、著名人たちもこの映画を絶賛していたが、タイトルといい、パッケージといい、予想がつく内容なため、閲覧する人は元々こういったアクションが好きな人なんだろうと思います。

たまにはこういった映画も良いかもしれませんね。

 

 

 

暗黒時代は悪魔が存在したか?エルサレムから来た悪魔上、下。

 

 

 

12世紀のイギリス、ケンブリッジ。暗黒時代と呼ばれた中世の時代の中で、シチリア王国(現在のイタリア)の女性医師アデリアの活躍を描く、一風変わったミステリーです

12世紀にイギリスなんて、どんな時代だったか想像もつかないけど恐ろしく差別的な社会であったと想像に難い。そんな女性軽視な時代に先進的な考えをもった一人の聡明な女性が主人公である。

話の導入部はこうだ。

 

1171年、イングランド。ある巡礼の一行が、ケンブリッジの町への帰途にあった。修道士や修道女、十字軍の騎士たちなどからなる面々の中には、恐るべき連続殺人者もいる。殺人者が町で繰り返してきた凶行は、いまや王国そのものを揺るがす事態にまで発展していた。国王ヘンリー二世がシチリアから招聘した、優秀な調査官シモンと、検死の術を修めた若き女医アデリアは、この難事件を解決できるのか。

あらすじより。

 巡礼の旅の一行に幾人もの子供を殺めた殺人鬼がいるという。その調査を依頼されたアデリアが、その舞台であるケンブリッジで、忠実なるマンスールと協力者の老女エルザ、マスターシモンと犯人を追い詰めていくのだが、アデリアの仲間であるマスターシモンはユダヤ人で、召使であるマンスールは黒人で宦官、という奇妙な取り合わせである。時代はまだ迷信が支配していた時代であり、キリスト教が支配するイングランドではユダヤ人であるシモンは差別の対象であり、アデリアは実に科学的で聡明だが、女性軽視された世界では思うように身動きが取れなくて、それがまた物語をスリリングにしている。

 

さて、今回の「エルサレムから来た悪魔」は中々設定に凝った物語りであり、十分名作であろうが、12世紀というイメージしづらい時代背景と、アデリアの勝ち気な性格を理解できるかどうかで面白さは変わって来ると思う。

個人的には中々面白いと思ったが、とってつけたようなラブシーンや、強引な展開にはちょっと辟易する場面があった。中でも「お守り」と呼ばれた犬の伏線があのように回収されたのは、ちょっと切ない気がして、なんとかならなかったのであろうかと、読んだ人間は大体思うのではないだろうか。

 

このような中世の設定での話は中々珍しい(ましてやミステリーなど)ので、一読してみてはどうだろうか、ちなみにこのアデリアシリーズは本作を含めて3作ほど邦訳されているらしいが、作家のアリアナ・フランクリはもう故人らしく、新作が出ないのは残念なことである。

 

読んでみて思ったのは、いつの時代も人間の考え方は大きくは変わらない普遍的なものなのだなと、改めて思いました。

 

 

作家は電子の夢を見るか?kindle paperwhite(キンドル・ペーパーホワイト)

 

 

アマゾンのセールでキンドル・ペーパーホワイトを購入した。(以下キンドル)60%OFFの大盤振る舞いで、その金額7980円。もうすでにキンドルFire HDXを持っていたので、まあ言わば衝動買いなのだが、これが結構気に入っている。

 

いわゆる電子書籍端末なのだが、よく言われるディスプレィが目に優しいとかはもちろんすごく良いのだが、一番のお気に入りは「それしか出来ない」という事が一番のお気に入りだ。

読書をする人だと、ぶっ続けで一冊読破してしまうことなどよくあると思うが、それが今までのキンドル・ファイアだと、いろいろできる為に、逆に集中が出来ない事が起こった。

より具体的に言うと、一段落ついた時にWebを見てしまったり、そのまま動画を閲覧してしまうという事が起きていた。中でも、読書中に分からない事がでて、ウエブで調べているうちに、どんどん深く探していっていつの間にか、本質からかけ離れてしまうという事が多く起きてしまったのだ。

 

ところが、このキンドルはモノクロであり、インターネットは繋がるけどキンドル本を購入するためだけのオマケ程度のもの、インターネットサーフィンをしたくても出来ない、したがって横道にそれることがないのだ。先ほどの調べたい事は簡単な辞書がついているので、それで検索すればOKだし、メールとかの通知もないので、どっぷりと本の世界に浸れるすぐれものなのだ。

と、言うわけで手に入れてからはすっかり気に入ってしまって、持ち歩いているのだが、この端末非常に軽くて片手で持っていても疲れない。これは重要で、大きいタブレットだと、長時間持っていると腕が疲れて来て集中できなくなるので、重量が軽いというのもポイントです。

 

物が成長期を超えると、普遍的な機能とは別で余計な機能がいろいろついてきてしまう。だけれども操るのがあくまでアナログの人間だから、出来ることは限られているので、できるだけシンプルのほうが結果使いやすいと思うのですね。

このキンドルという商品は、機能を絞ることによって値段をお手頃にして、本来の本を読むという事だけに特化したという事で、好事家にとって気に入るアイテムになると思う。

 

最初、電子インクのリロードや反応の鈍さに「え?」とい感じでしたが、少し使うと全く気にならないので不思議です。

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ディスプレーの文字は、まるで印刷のようで好感がもてる。

 

 

 

 

電気は自炊?わがや電力。

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わがや電力。ヨホホ研究所のWebページにて直販で販売中。

 

ヒッピーでミニマリストでライターという謎の人である「テンダー」さんの著書である「わがや電力」はテンダーさんが代表を務めるヨホホ研究所が発行している、いわゆる太陽光発電の本だ。

この本によると、小学6年生の理科の知識があれば戸建て一軒の電力時給は可能という

 

信念?を具現化するための指南書である。

 さて、近代に生まれ出た私たちは、一つの回答として物質社会に身を委ねるという選択があったのだが、これはもう旧世代の考え方のように思える。

今はどれだけ自然に回帰して、無駄な効率の悪いものを遠ざけ、心の充実を得るためには物質に縛られた毎日を見つめなおすというのが昨今の考え方なのだろう。

こういったロハス的な考え方を電力という観点から考えて見ると、我々はエネルギーの浪費を通り越して、まるでエネルギーを無駄にするために生まれたような錯覚すら受ける。だが、いくら家電製品などの快適商品を駆使しても、真の快適さを得ることは難しい事を我々は実感として感じているはずだ。

え?エアコンがあって、冷蔵庫で冷えたビールを飲んで、TVを見るのが幸せじゃないの?

ああ、確かに家電商品は我々をやるべき事から開放してくれた。それは現代として大いに享受するべきであろう。

快適の定義として、体にどこも異常が無く(手足が冷たかったり、お腹が痛かったりしない普通の状態の事だ)温度が適温で、将来の心配が無いというのが快適と呼ばれる状態らしい。

もちろん、電気を使いエアコンを発動させて適温にする、これで一つは快適だ。

だが、我々は将来にいつも不安を描き、働きすぎのストレスで体調を崩している人も多い。ストレスで多食になったり、イライラで怒鳴り散らしたり、家族とのコミュニケーションの不足で家族とも疎遠になってしまったり。

つまり、電力でいろんなものをフルパワーで動かしても、快適になるとは限らないという事だ。もちろん電力は大事で、いまさら過去に回帰など言うつもりはない、ただ我々の周りにはいつでも過剰なもので溢れており、その過剰なものを求めるために財を失いまた馬車馬のように働かなくてはならない。

ちょっと話がズレたが、いわゆる電力は必ず必要だし、それは送電してもらわないと受け取れないものであり、つまり一生電気代を払い続けるという、いわゆる負債という事になる。

そんな電力を自分で作る事ができたら、それは大きな電力でなくても個人が使うくらいならひょっとして、自炊する事ができるのではと思わせるのが本書だ。

 

そして本を読み進めると、それが可能である事と、巷にありふれる太陽光発電の施工がいかにエコでないかわかってくる。

売電というシステムはそもそも施工業者が儲かるためのシステムであり、それを外して自分が使う分だけ発電を行うというエコの観点から見ると、その施工費用のあまりの差に驚く、そもそも補助金がなければ普及しないシステムなど、エコである筈がないのだ。つまり金融商品としての太陽光発電ではなく、地球に住む住民としての太陽光発電とはどういうものなのか学べる書なのではないだろうか。

 

そして、多くのエコを語る人々が実際は豪華な家に住み、電気を浴びるように使用しているのに対して、この著者の生き方はすごく説得力があるなあと思うのです。

何故なら、彼は電気会社と契約せず、家を自分で修繕して、薪で暖を取りながら生きているのだから。

 

 

 

夢はでっかい方が良い。人類総プログラマー計画。

 

 

 

あらすじ。

 

ユビキタスエンターテイメントの社長清水亮による著書。

清水氏の考えと現実への実現さの困難を描いたドキュメンタリー。

経営者とプログラマーとしての資質の両立が難しい事を説いている。

最後は情熱や夢という青臭いものが大事と言うことを改めて考えさせられる。

 

 

まず、ユビキタスエンターテイメントという会社の社長という事で、自伝的な内容なのかと思ったが(そういう側面はある)清水氏が思い描くタイトルにもある「人類総プログラマー計画」というものの実現のための「プロダクト」を作るためのドキュメンタリーと言った方がより正解であろう。

 

もともとユビキタスという会社はソフトウエア会社であり、この本の当時はガラケー向けのコンテンツを作成していたらしいが、それなりに成功していたようだ。

しかし清水氏は、誰でもプログラムできるハードウエアを作る事を決意して「EnchantMoon」というタブレットを造る事となったのだが、それが思った以上に困難であるし、具体的に清水氏が思い描くものが上手く再現されない事に対する葛藤や不安、そして希望を出来るだけ具体的に描いている。

 

途中で「EnchantMoon」の開発の話が中心になり、「人類総プログラマー計画」があまり言及されないのはどうかと思うが、その内容には引き込まれるものがある。

少し前の話なので、ソフト会社がベンチャーとして熱をかなり浴びていた時代であるがゆえに、読んでいてもその高揚感が読み取れる。

 

また、清水氏は絵に描いたようなエリートだが、それにしても人材が優秀な人ばかり集まって来るのは、やはり清水氏が「夢」をもっているからだと思う。

「夢」をもっていない経営者というのは、やはり魅力に欠けるし、金が全てでは無いと言うつもりはないが、やっぱり最後は「金」ではないと人は思うものだ。

そういった人間性に人は引き寄せられるのであろう。

私もユビキタスの作成したJacascriptライブラリ「Enchant.js」をつかっているので、そのプログラムのコンセプトは理解しているつもりだ。

また、そういったオープンプログラムがどういった経緯で出来上がるのか、何故無償で使用できるのか、それを造ることで人はどのように社会に貢献して、富を得るのか、この本で一番感じたのは、

 

「夢を失ってはいけない」

という事なのではないだろうか。