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ジャンクな脳と記憶

レトロなゲームや読書の話題、ゆるりと。

オタクは夢をみるか?エクスマキナ。

自分は優れた能力を持っているはずだから、自分に見合う相手がいつか現れる、そういう風に考える事が決して悪いことではないのだが、現実というのはあまりに残酷にそれを打ち砕いてしまう。

今回紹介する映画は「エクスマキナ」だ。あなたの前に現れたアンドロイドは、まるで人間のように振る舞い、そして美しい。当然知的な会話が成り立ち、自分はそのアンドロイドよりイニシアチブがあるとする。

そんなシチュエーションだったら、あなたは理性を保つことが出来るだろうか?

最近はAIがニュースになったりするが、その進歩は目覚ましいものあり、我々の考えるものより、その(進化の)スピードは早いのだろう。はるか昔は「人工無能」などと揶揄されていたが、今はビックデーターが活用され、また機械自身が学習する術が開発されたため、この「エクスマキナ」のような人間と見紛う位のアンドロイドが出来てもおかしくない。

 

さて、そんな美人アンドロイドが、ひょっとして自分に好意をもっているかも知れない、などど考える主人公は、その思考自体が異常ではなく、高度に洗礼されたAIはおそらく人間と区別がつかないだろうし、その容姿は美しく整える事が可能だ。(誰も不細工な姿を態々造りはしない)主人公のケイレブはアンドロイド「エヴァ」のテストをする、という体で「エヴァ」と対話をすることになるのだが、エヴァはケイレブと街を一緒に歩きたいという事を吐露する。これは、情勢免疫0のオタクにはスーパーコンボに値する必殺技だ。

最初はアンドロイドの体むき出しの「エヴァ」であったが、ケイレブの為に服を着て、まるで恋い焦がれる少女のようにケイレブとの会話を心待ちにする。

その行為に「アイツ俺に気があるな」と思い、彼女の願望を叶えるため、盲目的に突き進んでしまう。このような事が若くしての場合、よくあるということだが、事におっさんになって、こじらせていると、時に逸脱行為にまで手を染めてしまうから恐ろしい。

で、どんな話かというと。

 

人間か、 人工知能か―― 検索エンジンで有名な世界最大のインターネット会社“ブルーブック”でプログラマーとして働くケイレブは、巨万の富を築きながらも普段は滅多に姿を現さない社長のネイサンが所有する山間の別荘に1週間滞在するチャンスを得る。

 

「エヴァ」は言う、「ネイサン」を信用してはだめ。

「ネイサン」は忠告する。「エヴァ」はただのアンドロイドだ、あまり深みにハマるな。

 

果たしてどちらが正しいのか?

 

ちなみに美しい女性が、やさしくしてくれるのは、ほぼ「イケメン」に限る場合が多いことを、オタク諸兄は肝に命じて置くべきなのだ。

もし君がそのような女性に恋い焦がれるなら、パソコンとか、ゲームとかましてやアニメなどは全てゴミ場箱に投げ捨てて、話題の服を着て、スポーツをやるといい。

 

人々はわかりやすいものが大好きなのだ。

 

 

遠い記憶。罪の声。

 

 

子供の頃起きた重大事件が、これほどのものというのを知らなかった、というのは今回紹介する塩田武士の小説「罪の声」だ。

ノンフィクションかと思える程の描写が題材にするのは、1984年に起きた誘拐、脅迫事件であり、さらに未解決事件でもある。日本ではあまりない誘拐事件だが、これは製菓会社を狙った大きな事件であり、「キツネ目の男」はメディアで連日放送され、その不気味さも相まって、記憶に残っている人も多いのではないだろうか?

私は小学生であったため、事の詳細は実は知らなかったし、学校の先生が「キツネ目の男」似ていたため、覚えていただけで、世間が大騒ぎする事件だという認識はあまりなかった。

そこで、本書「罪の声」だ。

 

京都でテーラーを営む曽根俊也は、父の遺品の中からカセットテープと黒革のノートを見つける。ノートには英文に混じって製菓メーカーの「ギンガ」と「萬堂」の文字。テープを再生すると、自分の幼いころの声が聞こえてくる。それは、31年前に発生して未解決のままの「ギン萬事件」で恐喝に使われたテープとまったく同じものだった。

 

この作品、作者は相当取材や過去文献に当たったのだろうな、というのが感想だが、物語としても破綻はなく(そのためやや地味な展開だが)手がかりを見つけるのが、まるで細い糸を手繰るようだと感じた。ダダの一つでも情報が得られなければ、次の情報にたどり着けず、取材は行き詰まってしまう。そして、事件は目に見える事項だけでなく、そこに関わる人の人生を軽く屠ってしまう程の破壊力がある。

同じような作品で「3億円事件」を扱った永瀬隼介の「閃光」も「3億円事件」に関わる人物たちの、数奇な運命を描いていたが、まさに巨額な事件は人間というものを簡単に飲み込んでしまう事が伺える。

 

「罪の声」では事件の31年後の現代。「ギン萬事件」(グリコ森永事件のこと)の脅迫の音声の主である主人公と、「3億円事件」を取材するルポライターの2つの視点から展開する。彼らが追う「ギン萬事件」の取材で交わるとき、真実が浮かび上がる!。

 

真実は小説より奇なりというように、実際の事件は(さらに未解決事件ともなれば)答えが無い分、よけいミステリアスだ。かつ、本当に真実はこの通りではないか、と思わせる世界観は、ただ凄いと思えるばかりだ。

 

ノンフィクションでは生生しすぎるので、あくまでフィクションであるこの作品は、当時その事件を覚えている人、あるいはあまり知らなかった人(私の事だ)でも当時の事を知る絶好の作品といえる。

そうしてあの事件を引き起こした犯人達は、この「罪の声」を読んだとしたら、どのように思うのだろうか?

30年前の事件であれば、まだ犯人たちが健在の可能性があり、この広い世界で「あの事件」として思いを馳せているのかもしれない。

 

まるで広告のような大袈裟さ、バンゲリングベイ。

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はるか昔(20年強)ハドソン(現コナミ)から衝撃のキャッチコピーのファミコンソフトが発売されるという。

その名は「バンゲリングベイ」

名前もさることならが、そのキャッチコピーがすごかった。

100画面の雄大さ。

16方向のスクロール

マイクにハドソンと叫ぶと何かが起こる。

という具合だ。

このエントリーを見た諸兄は、ああ、あれか的な反応をお持ちでは無いだろうか、いやその通りなんだけどね。コピーは。

ゲーム自体は、ヘリコプターを操り、敵の(バンゲリング帝国という)要塞(工場かも)を爆撃していぅというゲームである。

当時世間を流行らせていた「ゼビウス」(ナムコ)が強制スクロールであったので、このようなシューテイングで、自由に動けたらどんなに面白いであろう・・。

そう考えた当時のファミコン少年は、このバンゲリングベイを見た途端、

「これだよ、これを待っていたんだよ」

と膝を叩いたのは想像に難しくなく、実際私もそうであった。

だが、

実際は、ファミコンの性能で我々の想像するシステムは具現化は不可能であり、その売りどころのポイントが、逆にツッコミポイントとなってしまう始末えあった。

まず、100画面の広大さ、というコピーだが、

ほとんど海・・・。画面は変わらず、、、。

16方向スクロールは、独特の操作法で進行方向が上になる(表現しづらい・・)操作法で、やりにくい。

マイク機能も2プレイ時で、叫ぶと敵の部隊が応援に駆けつけるという仕様のため、結局1P側、2P側共に「?」状態になってしまうので、あまり売りの機能とはいえない。

 

当時の情報量では(雑誌くらいしか情報源がなかった)パッケージやスクショ、そしてTVのCMは絶大な力を発していた。

最近のようにレビューが蔓延している状態では、ハズレを引くことはあまりないかも知れないが、当時はプレイして見るまで面白いかどうか不明というのがなんとも博打な状態であった。

 

恐らく、商品を売り出す際、広告代理店がキャッチコピーを考えるのに、「100画面の雄大さ」(この表現は東京ドーム何個分と言う比較と類似している)「16スクロールの自由さ」などと大げさに喧伝してしまうのは致し方ないかもしれない。

そもそも、製作会社にとって「面白いか」どうかより「売れるか」「売れないか」が大事で、その結果、宣伝が派手になってしまうのであろう。

 

さて、酷評のように続いたが、じっくりやってみると、それほど酷い出来では無いことに気づく。当時のシューテイングに割りとリアルな設定を与え、慣性を加味した操作性は(ラジコンと揶揄されつつも)中々興味深い、ほとんど海の画面も「湾岸地帯」という設定(敵の工場を爆撃するという事で)ではある意味リアルとも言える。

だだ、4900円(当時)は結構高かったと思う、当時のカセットが3800が相場であったので、邪智すると1000円は広告代理店の取り分ではなかったのかと疑りたくなる。

当時の少ないラインナップではこのバンゲリングベイは結構売れたと思う、だが当然4900円は当時の少年の換算額では10倍に相当する、まさに血の4900のはずで、それがこのバンゲリングベイであったなら、相当のダメージを受けるであろう。(実際うけた)

この頃の洋ゲ―(バンゲリングベイはロードランナーで有名なブローダーバンド社が元々作成したもの)は、ハードがまるで追いついていない雰囲気ゲーが多く、時代が早すぎただけだとも言える。(ハードが進化した現代では、洋ゲ―の方が面白いタイトルがあるのはそれ所以なのかもしれない)

 

結論を述べる。広告代理店に限らず、何でも誇大すぎる表現には、本当は違う意味が隠されているという事を注意するべきであり、大体はそのウリ文句とは真逆を指している事が多いという事だ。コレは、声が大きい人が、本心を隠すためにわざと喧しい言動を言うことに似ている。

だから大声で「ハドソーン!!」などと叫ぶなど以ての外という事だ。

 

 

パンデミックは世界の終わり?コンテイジョン。

もし、抗生物質が効かないウイルスが蔓延した場合。さらに発生源が国際都市であるなら、それは未曾有の災害となりうるであろう。

そんなウィルスが猛威を振るい、人々の人間性など脆いものと描画したのが今回紹介する「コンディション」だ。

未知のウィルスが蔓延した世界で、果たして人間は理性を保たれるのか?

映画のキャッチコピーは「恐怖はウィルスより早く感染する」

この言葉でおおよその内容がわかると思うが、極めて致死性の高いウィルスが流行した時、人間は人間のままでいられるか、という主題が込められている。

この映画にかかわらず、この手のパニックをテーマにした作品は多く「ワールド・ウォーZ」や漫画「ドラゴンヘッド」など、色々興味深い描写をされている作品が多い。

だが、今回の作品にも言えるのだが、どれも(ドラマという性格上仕方がないのだが)そういった非常時は人間の本質が「悪」という前提で、数々の略奪や暴力が行われる。

確かに、アメリカなどで、デモが暴力に、暴力が略奪に変わるという(ロサンゼルス暴動のような例はいくつでもある)*1したがって、このようなウィルスが蔓延し、かつワクチンが少量の場合、局地的にはそういった事が起こる可能性があるが、長期的にはまた人は秩序を取り戻すと思われる。

マッドマックスや北斗の拳のような状態は、ならないのでは無いかと(私は)思う。このコンディションも比較的、暴徒のシーンは少なめだが、「恐怖」や「無知」は事態を悪化させる要因になる事を改めて思い知らされた。

渡辺浩弍氏の「ゲームキッズ」シリーズにこんな話がある。

 

みんなが核シェルターを購入しているのに、自分は購入をしない。だが、結果的に戦争が起こり、自分はシェルターを持っていないためにもはや死ぬしかない状態に陥る。

シェルターのセールスマンに泣きつくと、特別料金でシェルターを譲ってくれるという。

だが、渡されてのは一丁の拳銃であった。

 

 

 

このように、法が機能していなければ、他から奪えばいい的な考え方だ。

だが、それは奪った先に何があるのであろうか?

その時助かっても、荒涼とした世界を奪いながら生き抜くのか?それこそ映画マッドマックスのように、そしてその先には何が待っているのか?

 

そして、この映画にはもう一つトピックスがある。

それは、どのような場面でも、金を儲けようとする人間はいるものだ、という事だ。

それ事態は別に悪いこととも思えないが、

人々の「恐怖」を利用し、効果のない薬を流行らせようとするブロガー「アラン」彼は、自ら効果があったとする「レンギョウ」をデマによって高騰させようとする「預言者」もとい人気ブロガーである。

彼の行動が、奇しくも一番可能性があるような気がしたのは、世界がそういった風に投資で出来ている証拠であろう。

 

さて、この映画「マッド・デイモン」がものすごく地味な役で、何故マット・デイモン?と思う方が多いと思いますが、あれはあれで戦わないマッド・デイモンもいいんじゃないでしょか。

皆さん帰ったら手を洗いましょう。

 

 

 

*1:1992年にロサンゼルスで起きた暴動、白人警官の無罪判決により人種差別運動が過激し暴徒と化した。

老人が元気な世相。黄昏に眠る秋。

20年前に起きた幼児行方不明事件。スェーデンの避暑地であるエーランド島を舞台に、引退した船長「イェルロフ」、居なくなった子供「イェンス」はイェロフの孫である。イェンスは海に落ちて死んだ事となっていたが、イェロフはそれを信じてはいなかった。そんな中、彼の元に居なくなった少年「イェンス」のサンダルが郵便物として彼の元に届く、彼は昔エーランド島を震撼させた犯罪者「ニルス」の仕業だと思い、イェンスの母親「マリア」を呼びよせ、事件を調べなおすのだが。

 

さて、北欧の傑作ミステリー「黄昏に眠る秋」を紹介しよう。同じスェーデンの小説だと「ドラゴン・タトゥーの女」や「特捜部Q」などが有名だが、こちらは映像化こそされていないが(地味ということだろう)それこそ、その2作に劣ること無い良質な作品なのである。

 

スェーデンの田舎である「エーランド島」は寂れた港町であり、ここ最近避暑地として段々リゾート化が進んでいるが、夏を越すとどっと人の出入りが減ってしまい。更に物語の舞台であるステンヴィークは、さらに田舎と来ており、今回の事件の舞台が秋という事で、始終物悲しさを醸し出している。

 

この作品の秀逸な事に、行ったこともない北欧の寂れた田舎の雰囲気が十分に伝わって来ることだ。物語は戦前から現代まで大きく動くが、古臭さは感じず、十分有り得そうな事件であり、また最後まで飽きさせない犯罪者「ニルス・カント」の不気味さなど、ぐっと引き込まれる事否応無しです。

また、この作品は四部作の一部という事で、魅力的な登場人物にまた会えるのも良い部分ではないだろうか。

 

さて、齢80位の老人である主人公は、よくある主人公のように当然腕っ節は無いし、少し耄碌しかけている。持病のリューマチが痛みだすと、もう歩くことすら困難となるが、事件の真相を見抜く力はずば抜けており、年をとっても頭脳がしっかりしていれば、いつまでも若いという事を改めて感じる事ができた。

 

まとめ。

じっくり読むタイプのミステリーをお探しなら、ぜひ手にとって見てください。

派手なカーチェイスも銃撃戦もありませんが、リアルな結末と人の優しさがどう言う形で捻れていくのか、考えさせる作品です。

 

記憶は巧みに嘘をつく、記憶探偵と鍵の掛かった少女。

我々の脳みそは実によく出来ていて、自分の精神が破綻しないようにうまいこと書き換えを行っていることは知られている。それが、過去がいつでもいい思い出に包まれている事からも明らかだ。同時に強烈な出来事が起こると、いつまでもフラッシュバックのように何度も繰り返し、その時の状況が(鮮明に)思い出される事もあるだろう。

 

さて、今日は「美しいものには棘がある」的なストーリーが魅惑的な「記憶探偵と鍵の掛かった少女」をレビューする。

記憶の中に入り込むことが出来る「記憶探偵」である主人公であるジョンは、浴室で自殺した妻のアナに対する罪悪感に苛まれていた。

次第にそれは、彼の仕事にも影響して来て、やがて休職を余儀なくされる事となる。

 

「記憶探偵」はどうやら、人の記憶の中に登場人物として入り込み、その出来事を「目撃」し、それの真贋を確認する仕事のようであり、その内容は(記憶に実際に入り込む以外は)心理カウンセラーに近いものがあるようだ。

 

ジョンは他人の記憶に入るこむ過程で、自分の記憶が流れ込み(それは決まって水に関わる出来事なのである、それは妻が自殺したのが浴槽で有る事に起因している)

 

仕事が困難と判断されたジョンは、その実力を発揮できないまま失意の休職を受け入れる。だが、海沿いの妻と過ごした家を維持する為に金が必要になり、再び「記憶探偵」として仕事を受けようと試みる。

 

上司に進められた仕事は奇妙なものであった。

「アナという16歳の少女に食事をさせる事」

アナは富豪の娘で何か問題を抱えているようだ。そして、奇しくも「アナ」は死んだ妻と同名であった。

 

てな導入部分だが、

ここでのポイントは

記憶は操作できる。

おっさんと少女は恋に落ちない、ということだ。

 

関係ないが、ある結婚相談所のアドバイザーが結婚できない男性は、とにかく若い子が好きで、同世代は全く眼中に無いそうだ。そうして、映画であるような、おっさん+ヒロインの若い女という構図を夢に描くのだ。

確かにこの「記憶探偵と鍵のかかった少女」に出てくるアナは、大変美しい女性である。主人公のジョンも禿げているがイケメンであるが、しょせんおっさんである。そんな美しい少女に手でも握られたら、「あの子には俺しか居ないんだ・・・」と暴走するジョンの悲壮感も同情できる部分なのかもしれない。

 

この「記憶探偵と鍵の掛かった少女」はサスペンスの佳作であるが、低予算の割には楽しめるスリラーである。

とりあえず、ネーミングセンスが頂けない事を除けばだが、

 

 

夢は見るためにある?ズートピア。

 

 

前例が無いという事で、それ自体が不可能かのように思えるのは自然の成り行きである。

そしてホメオスタシス*1が、それを当たり前にして毎日を過ごしている。

 

つまり、我々は勝手に自分らしさに囚われてしまっていて、その可能性を失ってしまっている。

野球選手のイチローが小学生の時点で、「自分がプロ野球選手」になる事を信じてやまなかったように、まっすぐ自分を信じることが出来ないのである。

 

ある意味、それは普通の人間とも言えるが、残念な事に世の中にはそういった思い込みをさせようとする力が働いているようだ。

 

統計によると、両親が貧しい場合、その子供も貧しい傾向が多いというが、それは単純に教育レベルが低いとも言えるが、実はその両親が発する「負」の言葉が影響してい可能性がある。

繰り返されるその「負」は「自分たちと同じであるべき」という暗示によってその両親とにたような槌を踏むように仕向けられる。

「両親」がそうなら、わたしもそうなのだろう、という暗示だ。

だが、前述のイチローのように、真っ直ぐなそれこそ病的な信じる心があれば、それは克服できるはずなのである。

数ある啓発本が言うように「信じる心」は何よりも強いのであろう。だが、人間はブレてしまうし、その目的すら見つからないまま人生を終える人も多いのであろう。

それはとても悲しい事だ。

 

で、ここまでが前置きだ。

本当はSFの傑作「ダカタ」*2を紹介しようと思ったのだが、ここは同じような?ストーリーであるディズニーのアニメ「ズートピア」を紹介する。

 

「ズートピア」は擬人化された動物がすむ街の名前であり、そこには肉食動物と草食動物が住んでた。それぞれの動物には「適正」があり、その適正を外れる事はおおよそ無く、ウサギはウサギらしく、ライオンはライオンらしくという具合に定められている。

主人公のウサギの女性である「ジュディ」はウサギは農家になるのが普通なのに、警察官になることを夢見て、ついにその夢を果たす。だが、現実は大した仕事を与えられず、駐車違反取締などの不本意な仕事ばかりであった。

 

ネタバレになるので、これ以上の言及は避けるが、この映画「子供向け」と思ったら意外と「大人向け」の内容である。

仕事における葛藤や、こうあるべきという社会の発想。

そして、種族差別問題。相棒のニックはキツネというだけで、社会から爪弾きものとされ、仕方なくチンピラに身を落とすところとかは、擬人化した動物だからソフトに描かれているが、人間が演じたらかなりシリアスだ。

また、麻薬がらみの展開や、どんでん返しもあり、中々エンターテイメント色が強いが根幹とする部分はとても深く、傑作ではないだろうか。

 

冒頭にも書いたが、ウサギのジュディも自分がなれると信じたからこそ、夢はかなったわけであるから、やはり誰でも「夢」を失ってはいけないと、「真っ直ぐな気持ち」を持ち続ける事が大事だとおもいますね。

 

 

*1:生物および鉱物において、その内部環境を一定の状態に保ちつづけようとする傾向のことである。

*2:1998年公開のSF映画、DNA操作されたエリートばかりの世界で、不適応者である主人公が、適応者にしかなれない宇宙飛行士になる物語